The story of "Hell's Kitchen"
ヘルズキッチン

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 鍋で温めた水出しコーヒーをすすけたクリーム色に大きなハート形の絵が描かれた来客用のカップで出してやった。挽きたてのドリップもエスプレッソも好きだったが、これはこれで別の味わいがあるのでダンテはときどきまめに前の晩から豆を挽いて水出しを作るのだった。ところがネロはそれに口をつけるなり文句を言った。
「なんだこれ」
手袋を探してデスクの後ろの物入れを漁っていたダンテが振り返ると、少年は口の中で舌を噛んでしまったような顔でカップの中を覗き込んでいた。
「何がだ。飲めるって言ったろう」
「こんなコーヒー飲んだことない。ものすごく苦いし、なんかどろどろしてる。古いんじゃないのか」
ダンテは何も言わずにテーブルの端に転がっていた砂糖壷を拾ってネロの目の前に置き、また物入れの中身をひっくり返し始めた。
「肘まで隠れるようなお姉様手袋はねえな」
トリッシュだったら持っているかも知れないと思った。あの女はどうしてかそういう格好でキセルか何かを吸うのが似合う気がした。
「包帯じゃだめか。ミイラみたいにぐるぐる巻きにすれば、見えないぜ」 いいけど、とネロはまだ文句がありそうに尖らせた口の先でコーヒーをすすりながら答えた。寝間着の上に毛布をかぶって、その端で右手の先を隠していた。あまり使われていなかった毛布はひどく埃っぽそうだった。
「その呪いの入れ墨、彫ってるお前は何ともないのか?」
ネロはカップをごとりとテーブルに落とし顎をこわばらせてダンテを睨んだ。それからひとつ鼻を鳴らし、砂糖壷を手に取ってぐるぐると回しながら揶揄するように言った。
「あんたオカルトが好きなのか。何やって刑務所にぶち込まれたのか、って訊くだろう普通。さっきまではやたらと質問攻めにした癖に」
「あれはちょっと事情があってな、」
ダンテは自分のコーヒーを取るとぐいと一息に飲み干して年代物のデスクの年代物の椅子にどっかり腰を下ろした。
「長く同じ町に居座るには多少のこつが要るんだ。特に、同じ酒屋を三代も主が継いで行くような由緒正しい町じゃあな」 ネロは意味が分からないといった様子で砂糖壷の中身を無言でカップに移していた。
「で、どうなんだ」
「なにが」
「お前はそんな空恐ろしいものをくっつけて、長生きできるのか?」
「おれには関係ない」
「どうしてそう言える」
「今までそうだったからさ。ライカーズにいたときは同じ房の奴が立て続けに三人死んだ。おれは生きてる」
「坊や、お前の歳じゃ落盤だらけの炭坑でクソこき使われるにしたって死ぬには早い」
「その前もその前もその前もずっとさ。読んだ奴はみんな死んだ。わざと読ませてやったことだってある」
ネロはわずかに目を伏せて口元をへの字に曲げた。
「もういいだろ。話したくない」
それきりお互いが黙り込むと俄に部屋の中が静まり返った。隣家のどこかで洗濯機を回している音や、表通りを走る車の音が壁の向こうから聞こえてくる。いつも通りの朝だった。なにひとつ変わったことはない。水出しコーヒーの味もいつもと変わらない。デスクの手触りも埠頭の方から流れてくる潮風のやや饐えたような臭いも。おかしいのはこの奇妙な少年とダンテ自身だけだった。ダンテ自身が周囲と違うのはずっと以前からだった。彼にとって、人間の営みと彼らの持つ時間の流れは早すぎた。もっと大昔にはそうではなかったのかも知れないが、ダンテが物心ついた頃にはすでにそうなっていた。その頃から彼はある種の疎外感とともに生きて来た。体の外側で時間が回転し、物事は彼を通り抜けて去ってしまった。いつものことだった。
 ややあって滞っていた空気を押しのけるようにネロが最後のコーヒーをぐいと飲み干した。ついで大きなため息をつく。下を向いた拍子に寝癖と脂でかたまった髪の毛がばらばらと顔にかかった。少年は鬱陶しそうにそれを左手でかき上げ、ふと怪訝そうな顔でダンテを見た。
「なあ、あんた。どうしてそんな髪をしてるんだ?」
 ダンテは面食らったことを隠すために曖昧な笑みを浮かべて少年を見つめ返した。そんなことを訊かれるとは思ってもみなかった。数えきれないほどの人間から出会うごとに尋ねられた質問ではあったが、いまこの相手から問われるとは、とても奇妙な感じだった。なにしろ相手は見るほどに自分とそっくりな髪の毛をしていたからだ。褐色の膚の黒人が、同じ膚の色の黒人相手になぜそのような膚の色なのかなど頓知比べでもなければ尋ねるわけがない。困惑したダンテは知らず知らずのうちに顔をしかめていたらしい。ネロは次第に無表情になり、控えめに言い直した。
「変わってるって言われるだろ」
ダンテはまだ黙っていた。
「生まれつきか」
「ああ」
「おれも」
ネロはまたがしがしとべとついた髪の毛を左手でかいた。汚え、と舌打ちをする。
「シャワー浴びるか?」
そうする、と言ってネロはカップを置いて立ち上がった。キッチンの後ろが風呂場だと教えた。少年は毛布をかぶったまま大人しく奥へ入って行った。何か新しく着るものを用意してやるべきかも知れない。包帯は換えてやったが、寝間着は三日間ずっと同じ物だった。頭と同じにべとべとしているに違いない。ダンテは二階へ上がり、長い間開けてもいなかった寝室のクローゼットの 中から、くすんだ青色のシャツとすすけてあちこちが傷んでいるジーンズを引っ張りだした。
 生まれつきかだって?ダンテは少年のための着替えを手にしたまま頭を振った。生まれつきに違いなかった。真っ白な髪の色は父親譲りだった。行方の知れない兄も同じ髪をしていた。母親は美しい金髪の持ち主だった。彼女は人間の女だった。兄弟はあまり人間には似なかった。父親の血が彼をこの長い年月にわたって生かし続けていた。兄弟の父親はいつのまにやら世間広くに正統とされ始めた宗教の指導者たちが例えば悪魔などと呼びならわした者の一人であった。人間よりも時を長らえる以外に残った大きな力は何もなかった。あまりにも長く生きたので天命がとうに尽きていたのだ。それでもなお生きたのは、人間の女である兄弟の母親を愛したからだった。コルシカ島の土に生かされ、父は母を愛しわずかな間さらに長らえた。母は父と結婚し血の契約を結んだ。血の契約は母に百年を生きる精気を与え、彼女は生きた。不幸にも黒死病で命を落としたとき、彼女は齢百二十に近くなりながらも姿形は若く美しいまま、豊かな金髪もそのままだった。
 ダンテはぐるりと寝室を半周ほど歩き回って、病人の臭いのするベッドの傍に立って深々とため息をついた。あれは同族だ。直感はもとより、あの禍々しい入れ墨が語っていた。ひとを呪い殺す言霊だ。その成れの果てが人間の格好をしているのか、悪意のある誰かだ人間の子どもにそれを刻み付けなのか。ふと久方ぶりに兄のことを思い出した。ナポリの異端審問官は兄を殺したのかどうか結局わからなかった。もし兄が生きていたらともするとどこかで出会うことがあるのかも知れない。少なくとも、悪魔などというものにこうして結局また出会ってしまったのだ。だが何も喜ぶ気にはなれなかった。懐かしさのかけらも湧いてこなかった。忌むべき悪魔とそうでもないものを区別するためには、ダンテには足りないものが多すぎる。



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