The story of "Hell's Kitchen"
ヘルズキッチン
-3-
瞬く間に三日が経った。三度包帯を取り替えた。ガーゼや消毒用アルコールを買うために二度外出した。一度電話があり迷い猫の捜索を依頼された。取り込み中だという理由で断った。至って事実だった。
怪我人はほとんどぞっとするような早さで回復した。骨が見えるほどの傷は膿むこともなく新しい薄皮で覆われた。三日目にはすべての傷から糸を抜くことができた。その間、俯せにしようが傷口を突つこうが、一度も目を覚まさなかった。このまま目を覚まさないで飢え死にするのではないかと男はいぶかった。
四日目の朝に少年は目を覚ました。朝日に目をすがめながら寝室へ入って行くと、ベッドの上で怪我人が上半身を起こし、傷だらけの床の一点をじっと凝視していた。どうやらそこに置かれた片方だけのブーツを見ていたらしかった。
「始めから片方しかなかったぜ」
そう声をかけると少年は眠そうに目線を上げて男を見やった。それからきつく眉根を寄せて険のある表情を作った。その様がなんとも子どもっぽく、目算通りかあるいはさらに幼いように思われた。額や頬骨の上にできたいくつかの切り傷が、やや棘のある風貌にまた少し尖った印象を与えていた。
「ここは?」
長い眠りから覚めた者につきものの台詞の一つを少年は発した。
「俺のベッドルームさ」
「あんたのベッドルームはどこにあるんだ」
「おれの家の中に決まってるだろう」
少年は苛々と頭を振った。頭痛でもするのだろうか。コーヒーを入れて来てやっても良かった。朝食の後に習慣にしているコーヒーがまだだったからだ。
「あんたの家は、どこにあるって?」
「ニューヨークさ。ヘルズキッチン、ミッドタウンの真ん中だ」
少年は左手で眉間を押さえて口をつぐんだ。あの奇妙な黒い右腕は毛布の中にしまわれていた。
「ブーツに手を出してはいないが、コートは捨てちまった。ものすごく汚れてたんだ。悪く思うな」
「コート?」
「覚えてないなら、」
男は後ろ手にドアを閉めると小さな椅子を一つ引いてベッドの傍に腰を下ろした。
「問題はない。お前、名前は。なんだって埋められかけたりしたんだ」
「あんたは?」
「ナプレのデュランテ」
「随分芝居がかった名前だ」
「ダンテでいい」
「ナプレってなんだ?」
「人の話を聞かない餓鬼だな」
男は無精髭をさすりながらちょっと顔をしかめた。
「名前と、埋められそうになった理由、だ」
少年は面食らったように顎を引き、頬の傷に触った手を毛布の中に突っ込んで腹をかいた。
「ネロ」
「イタリア系か」
「知らない。ナプレってのはイタリアなのか?」
今度は男が少年を無視した。
「いい名前だが、問題は埋められる理由だ。皇帝ネロもローマの大火以前は名君と呼ばれた時期もあった。死にかけるほど殴られて生ゴミのコンテナに詰め込まれるようなへまをどこでした?」
ネロは両腕で毛布を抱え込むように背中を丸めてわずかに首を振った。
「質問を変えよう。この辺りで馬鹿をやって町の連中に灸を据えられたのか?」
「違う」
「そうか。そいつは良かった」
ダンテはあからさまに安堵のため息を吐いてみせ、笑顔まで浮かべたが、ネロはこちらを見ていなかった。毛布の中に押し込んだ右腕の辺りをじっと見ていた。それであの寒気のするような入れ墨を思い出した。背筋がぞくぞくとして首筋の産毛が逆立ちそうになった。ネロが何かに気づいたように振り向いて眉根をさらにきつく寄せた。
「見たのか」
ダンテが瞬きをして口を開きかけると、畳み掛けるように次の質問が飛んで来た。
「読んだか」
「いや。読めなかった」
「読もうとしたのか」
「ああ」
「二度としないでくれ。できるだけ見ないように…あまり見ると体に障るんだ」
「なんだって?」
ネロは何事か毒づいて右腕を腹に抱え込んだ。
「見ない方がいい。読むと死ぬ」
ダンテは黙り込んだ。黙って少年の顔を見つめたが、冗談を言っているようには見えなかった。
「手袋かなにか、布でもいいから巻いておいてくれ。目に触れないように」
冗談にしては手の込んだ演技だった。ダンテが黙っていると、ネロは自棄になったように早口でまくしたてた。
「聖書よりも古い言葉で生者を呪い死者を冒涜する言葉が書いてある。切り取って埋めちまいたいのはこっちの方だ。信じなくてもいいから見ないでくれ。世話してくれたのは感謝してる。リンチされたのはこれとは関係ない。ライカーズアイランドにいたんだ。出て来た途端にこうなった、分かるだろ」
「刑務所にいたのか?お前いくつだ」
「知らない」
ダンテは低く唸った。どうやら相当面倒くさい拾い物をしたようだった。少なくとも埠頭の連中にごみ捨て場荒らしのかどでどやされることを気に病むよりずっと面倒な話になっているように思えた。時計の針が頭の中で四分の一周するより前にダンテは考え込むのをとりあえずやめた。こういう類いの気の短さは生来のものだ。ロンドンの廃屋で世の中がぐるぐる回るのを眺めているのとは我慢の種類が違う。
「坊や、コーヒーは飲めるか?」
ネロは眉間のしわもそのままに心底うんざりした顔で、飲める、と答えた。
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