The story of "Hell's Kitchen"
ヘルズキッチン

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 男は瀕死の少年を担いで家に帰った。幸いごみ捨て場を荒らしたところも帰り道も、誰にも見られなかった。どろどろになったコートは捨て、片方だけのブーツを脱がせて男は知り合いの医者に電話をしようとして、やめた。その医者はヘルズキッチンの端に診療所を構えていた。町の中で起こったのかもしれない面倒を言いふらすのに適した相手ではなかった。代わりに、近くの古いアパートの地下で宗教がかった民間療法をやっているという噂の女に連絡をした。トリッシュという女で、付き合いは長かったがその妙な噂を確かめたことはまだない。ただ少し前に喧嘩で脇腹を撃ち抜かれた男がその女のところに転がり込み、今でも酒屋の軒先でタバコを吸っているところをよく見るので、思いつきで電話をしてみたのだった。
 「こういう商売も始めたの?」
女はベッドに横たわった少年をじっと見下ろして、ねっとりとそう言った。
「死体掃除って、死体を拾って来るのとは違うわよね」
「死体じゃない。驚くべきことだがまだ生きてる」
トリッシュは大袈裟に両腕を広げ、それから少年の上にかがみ込んだ。
「でも死んじゃうでしょうね」
「困る」
「そうね。困るでしょうね」
変わった髪の毛、とつぶやいて彼女は少年の真っ白な前髪をつまみ上げて指先に付いた血をこすった。
「お湯を沸かして頂戴。ウォッカか何かと、きれいなタオルをたくさん持って来て。それと毛布」

 女は何もかも勝手を知っているといった手つきで少年の傷を拭き、強い酒で消毒したあと、いくつかの傷を縫った。懐から取り出した針は使い慣れている感じだった。あぶくになって垂れていた唇の血はいつの間にか乾いていた。内蔵の傷でないなら、存外助かるかもしれない。男は少し難しい顔になった。
 ぐるぐる巻きになっていたコートを脱がせてみて初めて見えた上半身には、打撲痕と裂傷があったものの、脚や膝ほどのひどい怪我はなかった。目を引いたのはその右腕だった。一瞬、肘から下がないように見えたのだ。まばたきをすると、ペンキか何かで真っ黒に塗りたくられているだけで腕そのものはちゃんとあることが判った。ただあまりにも真っ黒に塗りつぶされているせいで陰になっていたのだ。その黒さといったら、何のてかりも濃淡もなく膚の色としてはあまりに異様で、しばらく見つめていると人間の腕の形に黒い穴が空いているかのように見えてくるほどだった。さらによく目を凝らすと、それは肘の少し上からうっすらと始まって次第に濃くなり、指先は爪まで黒々と塗りたくられている。いや、塗られているのではない。男はその事実に気づいて背筋が薄ら寒くなった。それは入れ墨だった。小さな文字が黒の顔料でびっしりと書き連ねられている。文字が重なり合い潰れることでうねるような黒い紋様が作られ、それが肘の下に至って合流し、腕全体を漆黒に染め上げていた。男はその文字を読もうとしたが、非常に古めかしい字体のアルファベットの羅列であることだけしかわからなかった。
 とても気味が悪いものだった。目を離そうとしても食らいついたように離すことができない。吐き気を覚えた瞬間、手当をする女が毛布を被せたので、男はその呪縛から逃れることができた。
「見たか?」
「いいえ」
簡潔に女は否定した。まるで見ていないことが事実であるとはっきり決めなければいけない、という風な口調だった。
 消毒と包帯の交換を約束させて、彼女はすぐに帰って行った。いっそ悪魔払いの真似でもしてくれれば少しは気が晴れたのに、と男は気落ちした。それから血まみれの少年を抱えたり運んだりしたせいで汚れた手を洗いに、バスルームへ行った。日頃あり得ないほどごしごしと手を洗い、上着の袖をまくって腕までこすって流したあと、ふと顔を上げて鏡を見た。見慣れた顔が普段よりやや疲れた表情を浮かべていた。しばらくその表情をしげしげと眺めた。そして何気なく濡れた手で自分の前髪をつまんだ。変わった髪の毛だ。そう思ったのは本当に久しぶりのことだった。



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