The story of "Hell's Kitchen"
ヘルズキッチン

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 その頃、この町は今よりもずっと頑な顔をしていて、どことも知れないところから手ぶらでやって来て寝床を探す正体の知れない男にはあまり親切ではなかった。逆に男は昔からひとには親切だった。酒場ではケチらなかったし、物知りで口が上手く面白い話をよくしたのでバーテンには気に入られ、煙草をやらない代わりに酒には滅法強かった。当時、酒場に居場所を持つというのは今よりもずっと大切なことだった。塩漬けのオリーブよりも砂糖まみれのナッツを好んでつまみにしたこと以外、概ね酒場の客は男を好くようになった。港湾にほど近い倉庫街の片隅に、元は倉庫を管理する会社の事務所だった廃墟があった。適当に片付けると居心地の良い場所になった。以来、追い出されずに住み続けている。
 時代は巡り巡った。生まれたときから知っている酒場の店主の息子がその息子に店を譲る頃には、すでに禁酒法の機運はすっかり盛り上がっていた。ヨーロッパから流れた清教徒の多いこの国ではそもそもアルコールがやたらと憎まれるようだった。戦争中の穀物不足もあって、あれよあれよというまに国の憲法が変わってしまった。酒場は非合法のものになり、酒を売るのも造るのも陰でこっそりやなればならず、ギャングどもがそれを取り仕切った。男のお気に入りの酒場は日の目を見れない存在になってしまった。何かと言えばおっかない連中が関わって来る上に、連中も一枚板ではなく、酒を巡って店の中も外も構わず鉛玉が飛び交うのは日常茶飯事になり、男にはその騒がしさがちょっと気に入らなかった。
 まったく奇妙なことに、この頃ニューヨークの酒の密売を取り仕切っていたギャングはイタリア語を喋る連中だった。ヘルズキッチンの酒場にバスタブ・ジンを下ろしていたのは有名なブルックリンのフランチェスコだった。彼らは工業用アルコールを使った密造酒も売買していた。常連客が何人も目をやられ、新聞が騒ぎ立てた。男はフランチェスコに話をつけた。フランチェスコは男の喋る古臭いナポリ弁に大笑いした。バスタブ・ジンの樽は入って来なくなり、代わりに輸送車ジャックで手に入れた上質のウイスキーが下ろされるようになった。これに関してはまた後で面倒な大騒ぎに繋がったのだが、それはまた別の話だ。


 二度目の戦争が終わり、世界は半分になり、向こう側半分の世界から飛び出した鉄球が宇宙を飛んで、人々は夜毎核戦争の夢を見ながら買い物に没頭した。
 1957年のある水曜日のことだった。なぜ水曜日かというと、男はいつも水曜日の夜にごみを出していたからだった。家中に溢れ返ったごみというごみを取り敢えずかき集めて大きな紙袋に詰め、埠頭の巨大なごみ缶に放り込む。これが水曜日だった。
 巨大なごみ缶、というのは錆びて使い物にならなくなったコンテナの一つだった。港湾作業者が実際にごみ捨て場に使っていて、木曜日の朝、中味はきちんと収集される。収集されたごみは巨大なトラックがスタテンアイランドへ運び、悪名高いフレッシュ・キルズ埋め立て地に埋葬される。
 だからその1957年の水曜日の夜、ごみ缶コンテナの蓋の隙間から突き出しているものを見たとき、これはなるほど理にかなっているな、と男は思ったのだった。それは明らかに人間の足だった。二つ揃えて突き出している足は片方は底の厚い男物のワークブーツを履き、もう片方は裸足だった。ブーツは泥まみれで、裸足の方は泥に加えて血で真っ黒に汚れていた。まったく理にかなっていた。取り敢えず埋めてもらおうと考えるなら、これはいい方法だ。けれど一つ困ったことがあった。足が邪魔になって捨てたいごみが捨てられない。コンテナの中は既に先着のごみでいっぱいになっていた。そこへ無理矢理押し込まれた足が栓になっている。どう隙間に詰め込もうとしても手持ちのごみを捨てるのは無理そうだった。
 男はため息をついて、取り敢えず栓を引っこ抜いて自分のごみを捨て、それから栓を詰め直せばいいだろうと考えた。そこでブーツを履いている方の足を掴み、思い切り引っ張った。ぐにゃりとした感触がした。いくつも連なった買い物用のカートを引っ張ったような手応えだった。どうやら足だけではないようだ。さらに力を込めて引っ張る。コンテナいっぱいに詰まったごみがばらばらと落ちて来て、ひどい悪臭がした。間違えてこの足を引き千切ったりすれば更にひどいことになりそうだと思った。男は片手に持っていたごみ袋を下へ置き、空いた手で血まみれの足首を掴んだ。べっとりと厚く付着した血で手が滑った。温い。
 ゆっくりと引きずり出した。ぬらぬらと血で光る脛が見え、肉の削がれた膝は白い骨が露出していた。膝の上を掴み、さらに引っ張った。血と汚物からしみ出した水を吸ってどす黒く湿った生地が出て来た。コートの裾だ。それをたぐり寄せた。積み上がったごみが雪崩を打ってコンテナから溢れ出た。故郷の農村で見た牛の出産にそっくりだった。男はごみをよけながら、自分がどうしようもない失態を犯したことを呪った。自分のごみを捨てるという目的はもう果たせそうもなかった。代わりにごみの中に埋もれた死体が残った。
 死体は汚れたロングコートに包まれているのと片足にブーツが残っている以外、丸裸だった。コットンの生地は大量に血を吸っていて殆ど腐臭を放っていた。男は途方に暮れた。ごみ捨て場は滅茶苦茶にしてしまうし、自分の持って来たごみ袋に加えて、死体が荷物に加わってしまった。放ったらかすわけにはいかないだろう。ヘルズキッチンは狭くて強く結託した町だった。同じ町の人間に害するものを絶対に許さない。以前、ヘルズキッチンに昔から住んでいた老婆が強盗に遭ったとき、翌朝には犯人は目抜き通りの電柱に括り付けられてぶら下がっていた。この死体もその手合いだろうか?
 身を屈めて死体の顔を覗き込んで、男はぎょっとした。死体ではなかった。まだ息をしている。泡混じりの血を吐き出し続ける唇が力なく喘いでいた。血が絡んでべとべとに固まった髪を顔から剥がしてやると、憂鬱になった。子どもだ。年端もいかない餓鬼だ。それなのに老人のように真っ白な髪をしていた。同じ髪を毎朝鏡で見ている。男は今すぐにトイレへ行って鏡を見たくなった。他でもない自分の髪がどんな色だったか確かめるために。



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