モンパルナスの奇術師
Rating---G
Pairing---ND
Summary---
パリ住まいのネロと変態オカルトおじさんダンテが床掃除。
Note---
変な話です。コメディを目指して失敗した感じがします。




モンパルナスの奇術師
14e arrondissement de Paris


 ネロはモンパルナスの地下鉄駅にほど近い古めかしいアパルトマンに住んでいた。建物は三階建てで、小さなパティオが付いており、表通りから一本裏へ入った路地に面していた。窓の立て付けが悪く、冬はかなり冷えるが南側の窓から見える景色は気に入っていた。広い墓地が大通りの向こう側にあり、高いポプラ並木と木立ちとがいつもきれいだった。毎週末に中庭でアンティークの市を開く教会も近所にあった。日曜の礼拝には行かなかったが、アンティーク市は楽しみだった。
 ネロの住む二階の角部屋の上にひとが越して来たのは、春もほど近いある年の二月のことだった。長らく空き部屋だった上の階から家具を動かすような物音が聞こえてくると、どうも少々がさつな人物が住むことになったようだと、気を楽に構えることができた。というのも、新たな隣人の心構えによっては宝物のレコードデッキを心置きなく使って音楽を楽しむことを少し控えなければならない憂き目に遭うのも覚悟しなくては、と新しい住人がやってくるという話を管理人に聞いてからこのかた、多少なりとも気をもんでいたからだった。このところネロのお気に入りの音楽はフレンチロックだった。これを少し控えるとなると、カフェインの消費量が三倍にはなるだろうと思われた。しかし天井の裏から聞こえてくる物音のがさつさは普通ではなかった。椅子に座ることひとつとっても、わざわざ体重をかけて椅子を引きずってから腰掛けているのではないかというほどだったし、他にもいったい何をしているのか見当もつかないような大きな音がひっきりなしにネロの部屋のランプを揺らしたりレコードの針をびりびり言わせたりした。極めつけは水漏れだった。どうも今日は朝から部屋が湿っぽいと思っていると、居間の天井の端に大きな染みが広がって、そこからぽたぽたと水が垂れていたのである。これにはネロも参ってしまった。すぐ上は屋根ではなくひとの住んでいる部屋なのだ。なぜ居間の真ん中に雨漏りがするのか。
 ネロはまずアパルトマンの管理人に電話をかけた。しかしこれがなかなか通じない。通話中の電子音を鳴らし続ける受話器を耳に当てている間も、天井の染みからは壊れた小便小僧のように水が漏れては床へ滴り落ちている。電話を置き、ブリキの洗面器を持ち出して水受けにすると、また電話をかけた。まるで通じない。ネロはしびれを切らして三階の部屋へ向かった。とにかく今すぐ水を止めてもらわなければ昼寝にも差し支える。一段飛びに階段を上がって行くと、不思議なことに三階の廊下が濡れていた。一週間も晴れが続いているというのにこれは至って奇妙だった。びしょぬれの傘を引きずって歩いたような水の跡をたどって行くと、ちょうどくだんの部屋、三階の角部屋であるネロの真上の一室にそれは続いていた。
 ペンキがあちこち塗り直されたクリーム色のドアを五回、素早くノックした。返事はなかった。もう一度。無視を決め込んでいるのかやはり返答はなかった。さらにもう一度。そろそろ我慢の限界だった。ネロはドアノブを掴んでドアを揺すってやろうとして、つんのめった。ドアに鍵がかかっていなかったのである。とたんにざっと足下をぬるいものが横切って行った。水だった。部屋の中から小さな洪水が起こって、津波が靴に襲いかかり、潮のように廊下へ飛び出して行った。部屋の中は雑然としていたが、床一面を覆う水以外にはこれといって変なところは見当たらなかった。一人暮らし用の小さなテーブルに椅子、衣装箪笥、本棚がひとつ、マットレスがむき出しのベッド、カーテンはなし。
「誰かいないのか!」
大声を張り上げてみても返事はない。ネロはつかつかと部屋に上がり込み、キッチンを覗いた。これといった食器はなく、ガス台に手鍋が一つ、シンクは乾いたまま。大洪水の原因はキッチンではなさそうだった。とすると残るはバスルームだけだ。ネロはばしゃばしゃと水を跳ね上げながらユニットバスのドアを開き、うっと息を詰めた。小さな白いバスタブに目一杯お湯が張られており、ひとが入っていた。しかもただ入っているのではなくて、紐のようなものが蛇口に結びつけてあり、それがバスタブに浸かった人間の首に巻き付いていた。
 絶句したのは一瞬だった。ネロはバスルームに飛び込んで、大声を上げながら蛇口に絡まった紐を引っ張り、バスタブの栓を抜いてから勢い良くお湯を吐き出している蛇口を絞った。これはどこからどう見ても自殺だった。紐は引っ越しの荷物を縛るような麻ひもで、服は着たまま、ただの入浴のわけはなかった。排水溝にシャツが詰まりそうになるのを裾をめくり上げてやり過ごした。麻ひもは水を吸って硬くなっていたが幸いにも結び目はきつくなかった。ネロは紐を首からはずすと自殺未遂者の息を確かめた。細く頼りなかったがまだ息の根はあった。項がバスタブの縁に引っかかったせいで鼻と口が水に浸からなかったお陰だろう。見ればいい年をした大人の男で、モデルのような赤いシルクのシャツと革ズボンを履き、ブーツまできっちりと履いたままだった。ネロは彼の頬を二度叩き、うめき声が聞こえたのを確認して安心した挙げ句、つい膝を床についてしまった。お気に入りのケミカルウォッシュのジーンズの膝がびしょびしょに濡れた。

 自殺しようとしていた迷惑な男はダンテという名前だった。助けてやったというのにその名前もこちらから尋ねるまで口にしなかった。ずぶぬれのままタオルを被ってとめどなくくしゃみを続ける男に、ネロは苦情を申し立てた。水を流しっぱなしにしないでください。うちの天井から雨漏りするんです。ダンテはネロを情けない目つきで見やり、雨漏りじゃあないだろ、とひとこと言ってあとは黙秘した。とんでもないオヤジだとネロは思った。口がきけるうちに謝罪しろ、と言いかけたところでダンテがまたくしゃみをしたのでせっかくの脅し文句も尻つぼみに終わってしまった。それですっかりやる気をなくしたネロは、黙秘を続けるダンテに向かってわざわざ自己紹介をした上にさらに親切を尽くして、馬鹿なやり方で自殺しないようにと注意をした。曰く、首つりと溺死と両方やろうというのは強欲である。ダンテは黙って南向きの窓の外を見ていた。三階のダンテの部屋は当然のことながらネロの部屋よりもずっと見晴らしが良かった。


 次の日、アパルトマンの共同ごみ捨て場でネロはダンテ再会した。ダンテは大きなラジオのようなものを捨てようとしていて、それは粗大ごみだ、と思わず呟いたネロをものすごく嫌そうに振り返った。
「なんだお前か」
あれだけ迷惑をかけた相手にずいぶんな言い草と態度だった。少なくとも自分だったら態度はともかくお礼ぐらいは言う、とネロは内心憤慨した。いい年をして馬鹿みたいなやり方で自殺を図った挙げ句に失敗したので気恥ずかしいのかも知れない。思いやりを込めてそう考えてみた。
「家を大洪水にして死にかけた割には元気そうだな」
「大家にどやされた」
「当たり前だ」
「殴られたんだぞ。大人のすることか」
ネロはぐっと何かやりきれない言葉の固まりを飲み込み、ダンテはがしゃんと大きな音を立ててラジオを放り捨てた。確かにその頬にはちょっと赤く腫れたようなあとが見えた。ざまあみろとは思わなかった。まだ多少、派手に首をつって死のうとした相手に対する小さな同情が胸の底に残っていたからだった。だがそれも次の一言でものの見事に吹き飛んだ。
「殴り返してやった」
「まじかよ」
「いや」
ダンテは口元の左端だけでにっと笑った。同情の代わりに人間臭い興味が湧くくらいには、魅力的な表情だった。
「あんた、いったいなんなんだ」
「魔術師」
どこからどう見ても暇を持て余した浮浪中年のダンテはそう言ってラジオを放り投げた手を上着のポケットに突っ込んだ。


 その日一日、ネロは心の中でダンテのことを奇術師見習いと呼んで憤懣をやり過ごしていた。揶揄には少しピントのずれた呼び方だったがあまり気にしなかった。半日かけて居間の壁と天井を雑巾で拭き、湿った床をドライヤーで乾かした。魔術師なんて馬鹿にした話だった。あの格好では良くて不名誉除隊になった退役軍人か、悪ければ詐欺師だ。あのがさつな性格では詐欺師だってうまく勤まるか分かったものではない。
 ようやく床が乾いたように見えたところで、ぽたり、と無粋な水滴が天井から落ちて来た。ここにきてようやくネロの堪忍袋の緒が切れた。ものすごい勢いで部屋を出ると三階へ駆け上がり、ノックもなしにダンテの部屋のドアを蹴り開けた。
「首だけ吊ってろ馬鹿野郎!」
ダンテは目を丸くして玄関を振り返った。ちょうど紅茶を入れてるポットを持って椅子に座ろうとしたところのようだった。彼は例のごとくがさつな態度でごんと音を立ててポットをテーブルに置き、ネロを指差して偉そうに言い放った。
「ノックをしろ、坊や」
「お前みたいなやつは二度と水を使うな!」
「うるさいな。おれはお茶が飲みたいだけだ」
「飲むな!床を拭け!」
思った通り、昨日のままろくに乾かす行いもせずに放っておかれた床はぐちゃぐちゃと湿っていて、テーブルの脚にまでカビが生えそうだった。さすがのダンテもその有様をまじまじと見るに至って、一瞬絶句した。
「拭けよ」
ネロが一言そう言うと、ダンテはまたひどく眉をしかめた。
「拭け。床這いずって拭きやがれ」
「いや…」
「大人のくせに四の五の言うな」
「ちょっと事情があってな」
なおもいい募るダンテにネロは怒りを通り越して心からがっかりしていた。こんな情けない大人は見たことがなかった。礼を言わない、謝らない、床拭きもしない、どこをとっても最悪だった。ネロは落胆して地を這うような声で尋ねた。
「床掃除ができない事情ってなんだ」
「実は腰を痛めた。昨日変な姿勢でバスタブに浸かったせいだと思う。首も痛い」
ダンテはそう言って大儀そうに肩を回してみせた。ネロはついかっとなった。
「首なんか吊りやがって、痛いで済むか!」
「大人は体が硬いんだ」
ネロは地団駄を踏んだ。踏みならした床はべちゃべちゃと湿った音がした。
「モップは」
「ない」
「買え!」
 ネロは自分がこの男の代わりに床を拭くのは死んでも嫌だと思った。どうしても嫌なので、ネロは自分の部屋にわざわざモップを取りに行き、その隙に座って紅茶を飲み始めていた馬鹿な大人をモップの柄で殴った。ダンテはそれでようやく床拭きを始めた。

 床拭きの間、ネロは苛々と腕組みをするのをやめて勝手にダンテのいれた紅茶を飲み始めた。その方が嫌がらせになるだろうと思ったからだった。しかしお茶が存外に美味しかったので、不本意ながら頬がゆるんでしまっていた。これではいけないと自分を叱咤し、ネロはダンテの部屋の探検を始めた。あまりものがないのですぐ飽きてしまいそうになったが、本棚を見るとネロの目の色が変わった。棚にぎっしり並んでいたのは本ではなくてレコードだった。シャンソンが多かったが、ネロの好きなKYOのレコードが何枚もあった。ジュリー・ピエトリも一枚だけベストアルバムがある。ダンテは意外と守備範囲が広いようだった。
「あんた、仕事はなにしてるんだ?」
「恩給とちょっとした自営業だな」
思ったような返事は返ってこなかった。ネロはむずむずと下唇の端を噛み、たどたどしいモップの動きを睨みつけた。
「それで…金がなくて生きてるのが嫌になったのか」
ダンテはモップを動かすのを止め、柄を脇の下に挟んで起用に腕組みをした。
「そういうわけじゃあないな」
「ならどうして自殺なんかしようとしたんだ」
「太陽にそそのかされたからさ」


 洗濯機でも落としたような大きな音で目が覚めたのはその晩のことだった。地響きがしてダンテはベッドから飛び起きた。地響きではない。まただ。またあの馬鹿が上の階で何かしている。ネロはほとんど涙ぐみそうになりながらガウンを引っかけ、スリッパのままで三階へ上がって行った。例のごとくドアに鍵はかかっていなかった。
 部屋の中でひっくり返した洗面器と並んでダンテが床に寝転がっていた。その首には例のごとく麻ひもが巻き付いていた。洗面器から飛び出した水でまたしても床は寝小便でもしたように濡れており、天井でぶらぶらと照明器具が揺れている。すぐに合点が行った。無謀にもこのちゃちなランプで首をくくろうとしたのだろう。
「おい、馬鹿野郎」
呆れたネロは両手を組んだまま横柄にダンテに呼びかけた。返事はなかった。気絶しているのだろうか。ネロはひっくり返ったままのダンテの傍に跪いてみて、男が息をしていないことに気づいて仰天した。泡を食って体を揺すぶってやったが反応はない。こういうときはどうすればいいのだったか。動転したネロは息の止まったダンテのくちもとにかがみ込んで、息を吹きかけたりした。心臓マッサージも思い出せる限りの適当さでやってみた。左胸を10回ほど両手で押してみて、またくちもとにかがみ込む。駄目だった。息を吹きかけるだけでは駄目に決まっていた。そう気づいて、ダンテは思い切って人工呼吸を試してみた。ひといきぶんの息を唇から送り込む。三回、心臓マッサージと交互に繰り返したところで、ダンテはゆるゆると息を吹き返した。息を吹き返したついでに咳き込み、じたばたともがいたかと思うと、嘔吐した。ネロはあわててダンテの頭を掴んで横を向かせた。窒息するかと思ったのだ。ダンテはひとしきり胃の中身を床へ吐き出すと、あくびのように大きなため息をついた。
「なにやってんだあんたは!」
「ああ…お前か」
唾を拭いながらダンテは涙でいっぱいの目をしばたかせた。ネロはその目を見て、自分のそれまでの行いを俄に後悔した。後悔したので、悔恨の言葉を口走ってしまった。
「悪かった、俺に思いやりが足りなかったんだ」
ダンテは困惑してネロの腕から逃れようと身をよじった。
「思いやりが…なんだって。どうした坊や、気味の悪い」
「こんなに悩んでるなんて知らなかったんだよ」
「ああ、結構悩んでるがな…でもちょっとお前気持ち悪いぜ」
失敬な言葉も今のネロの耳には入らなかった。
「吊っちまえなんて言って悪かったよ。なにせ本気で自殺なんて…」
「本気は本気だけどなあ、今のは危なかった」
「息止まってたぞ」
「そりゃあまずい。やめよう」
ネロは充血した目をぱちぱちと瞬きさせて首を傾げた。
「改心するの早いんだな、あんた」
「改心も何も」
ダンテはなおも邪気なく掴み掛かってくるネロの腕を押しのけようとしながら言った。
「地獄巡りの秘術はもう少しやり方を間違えると本当に死んじまうからな」
耳を疑った。地獄巡り、秘術、という単語がネロの脳味噌と見事なコンフリクトを起こしていた。
「聖地巡礼?」
「いや地獄巡り」
ダンテはそう言って、すぐ傍らに転がっていた洗面器を指差した。おお、神よ。この男はジョン・コンスタンティンの真似をしているらしい。
 ネロは拳を固め、男のこめかみを強打した。
「何すんだ、糞餓鬼!」
「馬鹿な大人は死ね!」
ネロは渾身の憎しみをこめてそう怒鳴った。たった今自分はこの男に人工呼吸までして助けてやったのだ。それを思い出すと頭の中身が沸騰して耳から出てきそうだった。事実、ネロの耳はあまりの恥ずかしさと怒りで耳たぶの端まで真っ赤になっていた。かさついた男の唇の感触がじわじわとよみがえり、思わず口元を拭った。にやにやしながら自分を見ているダンテから飛び退いて逃れる。立ち上がりながらふらつく頭を抑えて訴えた。
「奇術の練習はどこか別のところでやってくれ」
「奇術じゃない、秘術」
「どっちだっていい」
ネロは興奮のあまり涙がにじんで来た目元を恨んだ。
「おれの部屋の真上で死ぬのはやめろ」
「ああ、お前が助けてくれたんだったな」
恩に着る、と言われてネロはめまいがした。
 三階の窓からの静かな夜景はしんしんと美しかった。この男がまたどこかで首つりと溺死の真似をして死にかける姿が目に浮かんだ。モンパルナスの駅のトイレででも決行してくれればいいのに、と思った。トイレなら麻ひもを吊る配管もあるし水が要るなら便器の水がある。これ以上なく情けない奇術だ。ざまあみろ、と思いかけたがネロの美しい倫理観がその考えをじりじりと圧迫し、代わりに動転していた自分が必死でダンテを助けようとしたことへの自尊心が悲しくも優しくネロの心を包んだ。そしてジョン・コンスタンティンは首つりをしなくても地獄巡りができる、とこの男に教えてやるべきか、ネロはまたモップで床拭きをするダンテを睨みつけながら悩みに悩むこととなった。