ものぐるい
Rating---PG12 Pairing---DVD Summary--- 時代がかった狂人伝。昭和っぽい。頭のおかしい兄と頭の悪い弟。 Note--- やや血を見ます。相変わらずゲーム本編の物語とは全く関連していないお話です。いわゆるパラレルが苦手な方はご注意下さい。 ものぐるい Tom o'Bedlam いつからか、刷り物の紙の端を恐れるようになった。手触りのざっくりした塗工でないただの真っ白い紙の、あの三角形の端である。文字を練習する帳面の白い頁を見ていた頃からその端が恐ろしかった。記憶もあやふやなほど昔、鉛筆削りの穴に入ってしまうような幼い小指を紙の端で切ったことがあったが、そのせいだろうと医者は言う。しかし自分にはそうは思われない。何せ、小指は愚か体のどこを切ったって、それに怯えたことはないからである。学校にも上がらないような年の頃、大きな鉄門のレールの上で転び脚を派手に切ったことがあったけれども、血まみれの子どもに慌てたのは周囲ばかりで自分は特に泣きもしなかった。痛みは感じたが、それを怖いものとは思わなかった。では怪我に対して異常に鈍感なのかと問われれば、それも違う。いい歳をしてよくもまあと思うほどあちこちに傷を作って来る弟を見ていて眉を顰めることはままある。擦りむいた肘や膝にヨードを塗ってやるのは自分の務めのようなものだ。ほら、今も、弟は不器用な手で用いた剃刀にやられた人差し指を膨れっ面で吸っている。絆創膏を貼れと言っても聞かない。 「明日は病院まで薬を貰いに行くんだろ」 弟は空になった薬袋をくず入れの中へ押し込もうとしながら、わたしの目を見て二度、瞬きした。 薬包紙を一枚、二枚、と軽い手つきでめくり粉薬を包んでいく薬屋の手元を見ない。薄く伸ばした求肥のように半透明な薬包紙は、刷り物に使われる紙より随分ましだ。自分で包みを開いて薬を飲むことが出来る。それでもあまり見たいとは思わないので、薬屋の窓口を覗き込む弟の後ろでわたしはいつもよそを向いている。例えば一寸だけ開いた曇硝子の隙間から空を見たり、消毒で退色したビニル張りの長椅子にじっと目を落としたり、そういう風にして待っている。 弟は自分も薬が飲みたいらしい。それはなんだ、どんな薬だ、といつも煩い。 「だって、あんたよりおれの方が頭が悪いのに、どうして薬を飲むのはあんたでおれじゃないんだ」 薬の入った袋を自分のもののように抱え込んでそんな口をきく。わたしは下ろしたばかりの冬物の外套の釦を外して襟を緩めた。市電の座席に揺られていると体が少しずつ温まって眠気が忍び寄って来るが、実際に眠り込んでしまったことは一度もない。煩い弟がいつも先に眠ってしまうからだ。 「頭の悪いのが薬で治れば、勉強は要らない」 「なあ、これ何の薬だ」 何年も変わらず飲み続けている薬の袋を取り上げて、弟は首を傾げる。弟はものを覚えることが殆どできない。家から市電乗り場への道も覚えられないし、自分と家族の名前以外に文字も読み書きできず、一度も学校に通ったことがない。とても困難な繰り返しの末に数字と時計だけは読むことを覚えた。本は好きなようだった。読んでやると喜ぶ。飽きることを知らない弟はたった一つの物語も覚えることができない。幾度となく同じ物語に同じように瞳を潤ませる弟を見ていると、わたしは不意に、繰り返し繰り返し同じ夢を見ているような心地になる。 「眠くなる薬」 嘘にならぬよう答えてやると、弟は破顔して、瞬きした。長い睫毛に縁取られた目の中に、市電の窓に映り込んだ風景が幻燈のようにちらちらと踊った。弟は幼子のような目をしている。虹彩を囲む角膜の部分が透き通って、青いほどに白い。 「おれには要らないな」 その目を細めて頭を硬い座席の背もたれに預ける。 「そうだろうな」 わたしは幼子のように透明な弟の目がすっかり閉じてしまう前に、外套の襟の中へ顎を埋めた。 それは或る穏やかな夕暮れに突然やって来た。わたしはそれがいつか来ることを予期していた。餌を求める鳩がうろうろとのたくった道筋をよろめきながら己の後を付けて来ているのを知っているように、漠然と、しかし確実に知っていた。同時に心の中では鳩が飛び去ることを期待していた。気まぐれで臆病な動機によってばたばたと舞い上がりどこへともなく姿を消してしまうことを。だが鳩は丸い目をくるめかせてわたしの足元へ辿り着き、くっくっと小さく啼いて餌をねだった。わたしは俯き、背を丸め、両手で顔を覆って、耳を塞ぐ手が余っていないことを呪った。 それは真新しい本の頁の角からじっとわたしを見詰めていた。活字の印刷されたぱっきりと硬い頁の端に潜んだ痺れるような不安が、頁を摘んでいた指の爪を腐らせるのを感じた。わたしはあっと小さく声を漏らして本を床へ取り落とした。 「どうした」 座卓の上に肘をついてうたた寝をしていた弟が顔を上げて問うた。わたしは床に落ちている本の表紙を不自然に震える指の隙間からじっと見下ろしていた。両手の人差し指と親指をきつく握り込んだが、震えは収まらず、力任せに押さえ込もうとするとそれは肘を伝って肩へと這い登って来た。両手を閉じ合わせ関節が痛むほど握って歯を食いしばった。奥歯がかちかちと音を立てた。膝と、それから握り締めた両手の上へ弟が自分の手を重ねて、もう一度どうしたのかと問い直した。温かな弟の手のひらの下で、真っ白に血の気を失った己の手の中に氷のように冷たい汗が噴き出して来るのを感じた。わたしは弟を振り払って立ち上がり、転がるようにして洗面台のある風呂場へ向かった。 蛇口を捻り、肌を切るように冷たいはずの水道水に両手を浸けた。何も感じなかった。水の流れが手に当たる感触さえもぼんやりとしていた。異様な汗だけがあとからあとから噴き出して来た。砂粒のごとく小さな蟻が手のひらから次々に這い出て来るようだった。ああ、とすすり泣くような嘆息が漏れた。洗面台の中へ手をつき、身を二つに折って呻いた。 「なあ、どうしたんだよ」 後を追って来た弟の声は酷く動揺しているようだった。わたしは昔のことを思い出す。端がすり切れて丸くなるほど古びた絵本と表紙も背もぴかぴかと光っている新しい絵本を並べてためつすがめつ眺めていた、あるいは市電乗り場まで一人でわたしを迎えに来ようと何度玄関を出ても目の前の道をどう辿ればいいのか分からずに沓脱石に座り込んでいた、弟の目を思い出す。 わたしは弟の姿を見ようと面を上げ、洗面台の鏡を覗き込んだ。不安げに風呂場の入り口に立っていた弟が頽れる者を支えようとするような性急さで傍へやってきて寄り添った。弟の幼子のように透明な目が苦いほど優しくわたしを見詰めているのを、鏡越しに見た。そして、気付いたのだ。 いつも真っ白い紙の三角形の端に棲んでいた不安は、弟の目だった。あの剃刀よりも薄く剃刀ほどの害意さえなくそこにある紙の端が、いつかこの弟の目を抉るのではないかと恐れていた。いつか理性の糸のようなものがぷつりと切れて、あの紙の端で、弟の目を抉ろうとするのではないかと。 蟻どもが腕から首筋まで這い上がって髪の中から頭の内側に入り込んで来る。蟻が這い出して来る両手で耳を塞いでそれを防ごうとした。瞼の裏に星が散るほど強く目を瞑って息さえ止めた。何もかも無駄だった。蟻どもが眼球の裏を引っ掻いている。ああだめだ。その呻きすら口の端から蟻の群れになって這い出してゆく。 わたしは洗面具の置かれた棚から剃刀を取った。そしてその切っ先を右の眼窩へと差し込んだ。 雪の朝は冷える。座卓に置かれた漆盆に崩れた雪の小山が載っている。千両の赤い実が二つ、漆の黒に鮮やかだ。 「なあ、もう一回、字教えてくれよ」 弟が右目に宛てがわれた包帯を取り替えてくれている。 「本が読めるようになりたい」 弟は布団に座したままのわたしの横顔を見ているらしかった。そのように想像するが、盲いた右を預けて俯いたわたしにはそれが本当かどうかは分からない。包帯を留めるのに手元を見ているのかも知れないし、雪の積もった小さな庭を見ているのかも知れない。わたしはもう弟の顔を見ない。弟の目を見ない。辞書の柔らかくて角の丸い薄葉紙すらめくることができなくなってから随分経つ。 「そうしたらあんたの読みたい本、読んでやれるし」 わたしは、そうだな、と答えたきり口を噤んだ。 弟は湯のみに粉薬を入れようとしてまた不器用に零してしまったらしかった。何事か品の悪い言葉を漏らしながらわたしの手に白湯で溶いた薬の入った湯のみを押し付けた。湯のみは人肌に温まっており、それを持った手を上から弟の手に包まれると朝冷えに冷えきった爪先まで温まるようだった。 「薬を飲めば治る。おれみたいに頭が悪いわけじゃないんだからさ」 あんたはちょっと、頭がおかしいだけだよ。そう呟いた唇が包帯の上から右目に押し付けられた。 けれど何が治れば良いというのだろう。もう二度と弟の目を見はしないと誓ったことのささやかな異常さを除けば、盲目になろうとも、わたしはそれを寧ろ望んでいたのではないかと思うのだ。湯のみに下唇を押し当てて一つ息を吐く。額をこする睫毛の柔らかな感触に弟が瞬きするのを感じると、はらわたを千切るような寂しさが薬湯の中へ混じった。 |