The story of "Hell's Kitchen"
ヘルズキッチン
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少年が風呂に入っている間に、ダンテはトリッシュと十番街のアイリッシュパブで待ち合わせを取り付け、ポケットに二十ドル札を突っ込んで出かけた。トリッシュはこの肌寒い季節に肩を晒したノースリーブの黒い服を着て恐ろしくかかとの尖った靴を組んだ長い脚の先でぶらぶらさせながらマティーニを飲んでいた。三日前の謝礼を掴ませると、彼女はいつも通りちょっと鷹揚に礼を言って二十ドルを胸元にしまい込んだ。
「助かったのね」
マティーニのグラスに口を付けながらうなずいたので、凝った色の水面が今にもこぼれそうに揺れた。
「あっさりとな。分かってたのか」
「無駄な治療で金をもらうほど下衆じゃないわよ。でもどうかしらね、無事に済んだってもう言えるのかしら」
「ライカーズにいたそうだ。出て来たとたんにあんな目に遭ったと」
トリッシュはぽってりとしてつやつや光る唇を薄い三日月型に引き延ばして微笑んだ。
「事情は察するわ」
「中で三人殺したらしい。はっきりはしないが、同房者が続けて三人死んだと言っていた」
「ただじゃ出られないわけね」
「ただどころか一生出られないってこともあるだろう。どうして簡単に外へ放り出されたのか分からん」
ダンテの前には注文もしないうちからギネスのジョッキが置かれた。それを一息に三分の一ほど呷った。茶色がかった泡が無精髭の周りにべたべたと残った。
「もしかして、脱獄囚なのかしら」
カウンターに肘をついて女は声を潜めた。揶揄しているのかどうか、その目は笑っていなかった。この町の連中は例外なく面倒を嫌ったが、トリッシュの目は忌避するというよりは真面目に心配をしているようだった。
「さあな。どちらにしろまだほんの子どもだ」
ダンテはまたギネスを呷り、残りをジョッキ半分まで減らした。
「お前、あいつの右腕を見てないって言ったな」
トリッシュは長い髪の毛を丁寧に撫でながらうなずいた。
「あの子、右腕はなかったもの」
「どういう意味だ」
「そのままよ。代わりについてる腕みたいな形をしたものが何かは、分からない」
ダンテは呻いた。黒ビールの泡がじりじりと減って行くのを見つめていると、トリッシュがささやいた。
「見ない方が良いものは見ないってことができないのね。いいひと」
彼女はマティーニを飲み終えて席を立ち、あっという間に立ち去った。
事務所へ戻ると、風呂から上がったネロがダンテの用意した服をきちんと身につけて、勝手にビリヤードをプレイしていた。といってもキューの持ち方ひとつなっておらず、実際には単にボールを棒の先で突き回す作業でしかなかったのだが、彼はそれによく没頭しているようだった。
「お前、脚は大丈夫なのか」
骨の覗くような傷跡を間近に見てしまっていたダンテは半ば呆れて少年の背中に声をかけた。
「ああ。もう何でもない」
ネロはゆっくりとキューをビリヤード台の上に置いて振り向き肩をすくめた。
「何でもない、ね」
「これ、着て良かったんだろう?」
ちょっと袖や肩や腰回りにだぶついた感じのあるシャツとズボンを触りながら尋ねる。背丈はだいぶ一人前に近かったが、体のつくりが幼いせいか少し服が緩いようだった。
「ああ。黴臭いだろうけどな、我慢して着てろ」
少年は小さく鼻を鳴らして唇の左端をきゅっと引いた。それが笑いなのだとダンテはどうにか理解した。
「袖が長いから腕も隠れるだろう。手袋は要るか?」
「あんたが気になるなら」
ダンテは自分のしていた革手袋の右を外してネロに放り投げてやった。少年はそれを空中でうまく掴むとするりと右手にはめた。サイズはぴったりのようだった。革手袋は黒だったが、それをするとしないのとでは少年の雰囲気はまるで違った。手袋で完全に右手が隠れてしまうと、ネロからはあらゆる緊張感が吹き飛んだ。本当にただの高校生のようなたたずまいになり、息づかいまでもがさっぱりと透き通ったようだった。これが普通の人間というやつだ。ダンテはそう思って小さくかぶりを振った。
「なんだよ」
ダンテは答えようとしたが、それを遮るように不意に電話が鳴り響いた。デスクの上に置いてある古い黒電話が見た目と同じように辛気くさい音を立てて持ち主を呼んでいた。ダンテはごく面倒くさそうにデスクの前まで歩いて行き、行儀のひとつも知らないような態度で机の上にどっかと腰を下ろしてから電話を取った。先日の迷い猫の捜索願い以来の仕事の電話だった。
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