穴あきビショップ
Rating---R(グロテスクな表現)
Pairing---NDN
Summary---
「フラーレン」及び「悪魔のような男」のつづき。相変わらず中途半端な攻殻機動隊パロですが、攻殻っぽさはかなり目減り中。
Note---
加筆訂正し、10/18に再掲しました。
食事中の閲覧はおすすめしません。相変わらずゲーム本編の物語とは全く関連していないお話です。いわゆるパラレルが苦手な方はご注意下さい。




穴あきビショップ
Perforated Bishop


 奥のドアを足で開けるとネロが立っていた。ごく普通にそこに立っていた。ダンテには彼に何が起きたのか判っていたから、それは非常に奇妙なことだった。
 まったく見るからに奇妙だった。なぜならネロはごく普通にそこに立っていたけれども、彼の右の肩甲骨には穴が空いていて砕けた骨が血と一緒に背中へ飛び出してコートの裏地に無数の破片となって突き刺さり、血はコートもシャツもぐしゃぐしゃになるほど流れてブーツまで濡らし足の下に水たまりを作りかけていたのだった。その上、ネロは開口一番これまた奇妙なことを口走った。
「変な音がする」
そう言って、甘いオムレツの中に入っていたピーマンを思い切り噛んでしまったような顔をした。
「いやな音だ」
ダンテは義体化されていない柔らかな生の組織でできた彼の肩がどうにか元通り回復する可能性があるだろうかと考え、一瞬で否定せざるを得なくなり、それから柔らかい組織の部分をこんな風に破壊されたまま普通に突っ立ってドアの前で立ち話をしているのは本当に奇妙で寧ろ異常だと思った。
「それに痛くない」
ネロの顔が更に歪んだ。痛くない、と繰り返した。その間も足下の血だまりはじわじわと大きくなっていく。にも関わらず彼は未だにさも当然という様でその場に立ち続けていた。色素の抜けた髪が汗でべったりと額にくっついている。痛くないと不平を漏らす唇と頬と髪が同じ色に塗りつぶされている。
「血を流し過ぎだ」
ダンテが言うと、ネロはきょとんとして黙った。そして白痴じみた熱気に浮かされた目でダンテをじっと見つめてから、小さく口元を戦慄かせると、不意に魔法が切れたようにその場に倒れ込んだ。


 「痛くない」
警察病院のベッドで目を覚まして最初に口にした台詞もそれだった。
「モルヒネだ」
ネロは変な顔をして笑った。
「冗談だろ。指の先まできれいに動かないぜ」
「麻酔が切れてないんだろう」
ネロは微笑みを歪んだ形に固めて自分を見下ろしているダンテにようやく目をやった。
「もう駄目だよな、この肩」
「運が悪かったな。関節ごと骨が砕けちまって、交換しかなかった」
「済んだのか」
「ああ」
「さっさとここから出たい」
「麻酔が切れたらな」
ネロは嫌な笑いを唇に浮かべた。表情が真横に裂けてしまうような笑いだった。


 重篤なダメージを受けて痛みがショックを引き起こし活動に支障を与える可能性がある場合、電脳が全身の神経系に働きかけて痛みの伝達をシャットダウンすることがある。警察官や軍隊で大きな怪我を負う可能性のある仕事に従事する人間ならばごく一般的なオプションとして追加するギミックだ。ネロが撃たれた当初に痛みを感じなかったことはそれで説明がつく───例え本人にそんな機能追加をした覚えがなくともメンテナンスの度に自分の体に何が加えられているかなんて誰しもすべて把握しているわけではない。
 「痛みもままならないなんてひどい体だ」
ネロは医者と義体技師の両方からしばらくは無理に振り回すなと言い含められた右肩を大義そうにさすりながら、買い換えたばかりのカウチにうずくまった。
「いやな音がしやがる」
どんな、とダンテは冷蔵庫から取り出したペットボトルの水をローテーブルに置いてやりながら尋ねたが、ネロはきつく眉根を寄せたまま答えなかった。
「狭い倉庫でドンパチやって耳もやられたか」
「そんな音じゃない。耳鳴りとは違う」
「弄ってやろうか」
「何を」
「聴神経のテンションを一番下まで絞ってやる」
また、ロボットじみた言動を厭味たらしく揶揄されるだろうと思った。ネロはそうしなかった。だるそうに唸りながら身をよじり、手首切らせてくれよハサミで、と呟いた。

 浴室はあっという間に血の色をした液体でいっぱいになった。体液は失いすぎないように気をつけなければいけない。限界近くまで体の中味を抜かれると、全身が氷漬けにされたように冷え、吐き気が込み上げて来る。実際に嘔吐した。昼に食べたマルゲリータピッツァが胃液くさいどろどろの粥になって出てきた。これ以上は危ない。気絶して糞まで漏らすのはさすがに御免だった。
 ネロは両手の親指の爪でダンテの手首に開けた傷が塞がらないように絶えずえぐりながら、頸動脈に歯を立てて血管の噛み心地を確かめていた。ハサミは右の大腿動脈の近くに文字通り刺さっていた。ネロは服を脱げとも言わずにまるで死体損壊犯のように乱暴にハサミを振り下ろした。軍放出品を扱う店で安く買ったカーゴパンツが台無しになった。シャツも元の色が分からないくらい汚物と血がしみ込んでいる。ばちばちと刃を閉じ合わせて服ごと皮膚を切り開かれた上にその刃の片方を半分近く突っ込まれて、先端は骨にまで当たっている。寒気と不快感に鳥肌が立つ。主な出血はその傷からだったので、ダンテはそろそろ抜いてくれ、と浴室の床に仰向けに転がったまま大股広げて言うにはあまりに卑猥だと思いながら呻いた。
「いやだ」
「お前、これで俺の義体が修理に回される羽目になったら監査部に言い訳できるのか」
ネロはのろのろと体を起こし、頸動脈の代わりに手首に口を寄せ傷口の中に歯を突っ込んで生皮をかじりながら、ハサミを引き抜いた。鈍い音がして筋肉で出来た太い血管が裂けた。どっと血が溢れて頭と胃が逆さになったような貧血に襲われる。堪え切れずにまた嘔吐した。ダンテが上半身を捻って胃液を吐き出していると、ネロは今度は手首を開放して刃物を引き抜いたばかりの傷口まで顔をもって行き、そこを手で摩り回した。
「いやな音だな、これ」
ダンテは内股に頭を突っ込んで喋るネロの髪を掴んだものの、引き剥がす気力が残っていなかったのでそのまま離してしまった。
「肉と肉がくっつく音だよ、自分で聞こえないか。小さな虫があんたの傷を中から食ってるみたいな音がする。でもこうしてると、ちゃんとこの音はあんたの体から聞こえるんだって、分かるな」
安心する、と蚊の鳴くような声で呟いてネロはダンテの塞がりかけた傷口に唇を寄せた。ダンテは吐瀉物を拭った左手でそのまま目を覆った。もうすっかり血が足りなかった。元に戻るまでにはそれなりの時間が掛かるだろう。ひどい気分だった。
 「少し流してくれると助かるんだが」
閉め切った浴室いっぱいの血と吐瀉物が冷えもしないで放つ臭気は強烈だった。それなのにネロはまたいやだと駄々をこねた。肩を吹っ飛ばされて頭までどうかしたのだろうか。肩がなんだというのだ。もともと肘から下は借り物だった。それが少し増えたり減ったりがなんだ。ダンテならそう考える。生まれもった体のまま生きている生身の人間の考えることは、サイボーグとは随分違う。
「流したら、音が聞こえなくなっちまう」
ネロはダンテの内股に鼻を擦り付けてぐずった。傷は既にほとんど塞がっている。
「やめろ、くすぐったい」
「もう噛み付かない」
「そうじゃない。手首にしてくれ」
「なんで。ここの方が傷が深かったから音がたくさんするんだよ、本当に自分で聞こえないのか」
ダンテは目を覆っていた左手を床のタイルに放り出して、天井を仰いだ。勢い良く飛び散った血が点々と模様になっている。もうあまり赤くはない。人工物で出来た体液は体から出ると血液よりも早く退色して黄色っぽく濁る。
「犬に強姦されてるみたいだ」
ぽつりと呟くと、ネロが不機嫌そうに頭を振って髪の上に乗っていたダンテの右手を振り落とした。
「なんでそうなるんだよ」
「そこからどけ。流せ。掃除しろ」
「いやだ」
「お前は何がしたいんだ」
「あんたの体からするいやな音を聞いていたい」
ダンテは口を噤んだ。
 ネロは長い間黙って太腿の傷口のあとを指で引っ掻いていたが、最後になって奇妙な口調で───肩を砕かれたのに痛くないのだと訴えたときとそっくりの口調で、舐めてやろうか、と呟いた。あんたにはゲロばっかり吐かせて悪いしな、たまには気分よくしてやろうか。ダンテはあまりにも疲れていたので、風呂掃除しろ、と呻いたきり返事はしなかった。


 わずかに転寝をしたらしかった。ダンテは硬いタイルの床で凝り固まっていた体をなんとか引き剥がして起き上がった。大方適当にシャワーでもぶちまけたのだろう、あちこちがべたついていたものの床の汚物は流され臭いはだいぶましになっていた。ネロはもう浴室にはいなかった。すぐ近くで水を流す音がする。首をひねるとユニットバスの浴室と別に取られた脱衣所の端の洗面台に立っている後ろ姿が、カーテンの隙間から見えた。とりあえず二度と着れなくなった服をべりべりと体から剥がすように脱ぎ捨て、体を洗った。手首の傷も太腿の傷も既にすっかり見えなくなっていた。
 浴室のカーテンを引くと、ちょうど足を下ろしたリノリウムの床に茶色っぽい水たまりができていて、また足が汚れた。一足先に風呂を出たというのにこの様子だとあまり身ぎれいにはしていないようだった。ダンテは裸足で汚れた足を床に擦り付け、おい、とネロに声を掛けた。ネロは洗面台に向かったまま返事をしなかった。シャワーで流したばかりの臭気が再び漂って来て、思わず鼻をひくつかせた。ライフルで肩を吹っ飛ばされ粉々になった骨と血に塗れたコートを来たまま突っ立っていたときと同じように、ネロの足元には小さな水たまりができていた。真っ赤な水たまりだ。酸素輸液の酸っぱい臭いはほとんどしなかった。身を屈めて一番近い水たまりを指でかきまわした。薄く濁った水の中に溶けにくい塊がすっと赤い線を引いた。血だ。
 「壊しちまった」
ネロはそう言って唐突に振り返った。左手に捩じれて刃こぼれしてしまったハサミを持っていて、右手は洗面器の中だった。
「何を」
「借り物だよ。あんたのとは違うんだな。もう二年交換してないしリミッターも外れっぱなしだし、型落ちの安物ってとこだ。あんたの方がきっと良い部品使ってる」
 ダンテは洗面器の中から持ち上げられた右手を見て目を細め、小さく息を吐くと、かぶりを振った。部分的に手の素体を覆っていた素材がびりびりに引き裂かれて伸びきったビニルのように垂れ下がり、中のフレームが丸見えになっていた。醜悪だった。もともとあちこち被覆材がなくなって、義体を構成する繊維質や束になった色とりどりのワイヤーだの電装系のコードやらが覗いていた腕は異様なものだったが、ずたずたに千切られたそれらが白い骨のようなフレームのあちこちから引きずり出されて潤滑液を垂れ流している様は本当に酷かった。そしてそれよりも酷かったのが、ハサミを持った左手だった。たかだか日用品のハサミで戦闘用義体に使われているセラミックの骨格を断ち切ろうとしたのだ。左手の親指と中指が折れている。中指は第一関節から先がハサミの刃の間でぶらぶらと揺れていた。親指は第二間接が開放骨折していた。なんて馬鹿力だ。骨の飛び出した傷口からどうしようもない早さで血が溢れ、肘から流れ落ちている。
 腕を上げろ、とダンテは低い声で命令した。
「傷口は、心臓より上だ。そんなことも知らないのか」
ネロはきょとんとして瞬きを繰り返した。言われた通り、ハサミを持ったままの左手をひとに手を振るような仕種で肩の高さまで上げると、なんで、と呟いた。
「心臓が血液を送り出すポンプだから、その位置より下に傷があると重力に従って出血し放題になる。死ぬぞ」
ネロはまた表情が真横に半分に引き裂かれてしまうような笑みを浮かべて答えた。
「死なないだろ」
「出血多量で死ぬ」
「具合が悪くなるだけだ」
いいや、とダンテはゆっくりとネロの左手首を掴んで更に上へ持ち上げ、その腕の付け根をもう片方の手で押さえてやった。腕を流れ落ちて来る血の量が目に見えて減った。
「死ぬんだ」
ネロは黙り込んだ。長い間黙っていた。それから不意に泣き出しそうに目許を歪ませて俯いた。
「なぁ、」
「なんだ」
「音が聞こえるか。こっちの手から」
傷の塞がる音、聞こえるか。ダンテは全損を免れない様子の右腕を見遣って首を傾げ、いいや、とまた否定した。ネロが小さく笑った。
「やっぱり型落ちなんだな」
「潮時さ。交換するといい」
「あんた、本当におれの神経のチャンネルいじってないのか」
「人の感性は大事にする主義なんでね」
ネロは力なく笑って、堪え切れないという風に頭を垂れた。
「すげぇ、痛い」
その呻きが苦痛というより懺悔に近いように聞こえて、ダンテはふと本物の血がこの生身の人間の若者の体から流れ出しすぎるのを止めるために両手が塞がっていて、彼を抱きとめてやる腕が余っていないことがとてももどかしい、と思った。