オレンジママレードバタフライ
Rating---G Pairing---D+V Summary--- 煙草を吸う兄と、アイス食い過ぎてゲロってる弟。仲良しべったり兄弟。 Note--- 寝付けないので書いてみた掌編です オレンジママレードバタフライ Orange Marmalade Butterfly 世界が右回りに回転している。時計と逆方向に、頭の周りを水平に、回り続けている。目を閉じる。すると今度は上へ下へ膝を揺すられる。ぐるぐるゆらゆら。世界は回る。揺れて落っこちる。瞼の裏へ。宇宙がひっくり返って、おれは便器の中。 白っぽいメレンゲのかたまりのようなものがうつ伏せに飛んで行くスノウマンに似た形で便器の底をずるずると滑って水の中へ落ちて行った。夕食のあと寝転がってラジオを聴きながら兄貴といっしょに食べたアイスクリームだ。気持ち悪いのと悲しいのと勿体ないのとで涙が出て来た。寝間着の上に被ったカーディガンの袖で顔を拭った。 「あんなに食うからだ」 バスルームのドアが開いて、頭の上にタオルが降って来た。おれは便座の上に顎をのせて床に座り込んだまま顔も上げずに唸った。 「おれはもう寝る。ドア閉めるからな。うるさい」 1リットルの箱でアイスクリームを買って来たのはバージルだった。頼んでもいないのにそんな大きな箱を、卵とトマトとバターとベーコンと白のテーブルワインと2カートンのゴロワーズをいっしょに近所のマーケットの紙袋に詰め込んで買って来た。確かにアイスクリームは頼んだ。こんなに買って来てくれると思わなかったから、食えるだけ食ってもいいと言われて喜んだ。おれは煙草は吸わない。気難しい文学者みたいな横顔をこっちに向けているとき、バージルはよくフランス製の匂いのきつい紙巻き煙草を吸っている。どこで覚えたのだろう。最初は臭い臭いと思っていたが慣れてしまった。昔よく通った穴蔵のような飲み屋の匂いだ。すれ違いざまに兄の横顔からあの煙草の匂いがすると、近頃は懐かしくなって気分が落ち着く。おれ自身はアルコールと喉が焼けるほど甘いデザートたちの虜だから、匂いだけが取り柄のドラッグには興味がない。誰だっけ、体に悪いだけで酔っぱらえもしない煙草は最低のドラッグだって言ったのは。そんなことを考えながら、おれは滲んで仕方ない涙を真新しいタオルで拭った。 便座に突っ伏したまま、うつらうつらしてしまったらしい。おれは腰と背中に嫌な痛みを覚えながら唾を吐いて起き上がった。便器の水を流す。洗面台によじ上り、口を漱いだ。胃液で喉も唇もひりひりする。うがいをして顔も洗う。廊下に出る扉を開けると、ラジオの音がした。何時だろう。まだ家の中は暗いし、朝ではなさそうだった。玄関からすぐの居間のカウチの傍らの明かりがついていた。バージルが例の気難しい文学者みたいな横顔をこっちに向けていた。口元に小さな火が踊っている。白い横顔は俯き加減で、紙巻きを摘む指がもの憂げに動いていなければ、うたた寝をしているようにも見えた。ローテーブルの上の灰皿にはもういくつも吸い殻が溜まっていて、おれがタオルで口元をこすりながら突っ立っている間にもうひとつそこへ吸い殻が押し付けられた。 「寝てないじゃねえか」 おれが呟くと兄はまた新しく箱から紙巻きを取り出そうとしていた指をひたと唇に当てて、黙れ、と命じた。ラジオからは気怠げなシャンソンが流れている。それが聴きたいのか。おれは靴を忘れた足で床をぺたぺたと歩いて行き、さもずうずうしくカウチの足下のラグマットの上へ座り込んだ。そしてオイルライターの火がつく音がシャンソン歌手の甘い歌声に混じるのを聞きながら、カウチに寄りかかり、額を兄の膝にくっつけた。兄貴はなにも言わなかった。懐かしい煙草の匂いが聴き慣れないシャンソンに混じって、アイスクリームで爛れた胃の具合を優しく騙してくれた。 おれは煙草を吸わない。シャンソンも聴かないし、ワインも飲まない。冷蔵庫でキンキンに冷やしたビールと甘いイチゴフレーバーのアイスクリームが好きで、ジュークボックスでちょっと懐かしい時代の商業ロックを聴く。おれにはどうしてバージルが煙草を吸うのか分からないし、シャンソンのどこがいいのかも訊いたって教えちゃくれない。もし兄貴がそのクソうるさいハードロックミュージックのどこがいいのかと訊くなら、おれはいくらでも喋ってやれるのに。 そんなふうになったのはいつからだったろう。気がついたらもうこんなふうだった。違う方を向いて、違うものが好きで、だんだんといろいろなことが分からなくなった。それでもおれはいま、兄貴の膝小僧に頭を乗せてテーブルの上の灰皿を見つめている。もうあとどのくらい体重をかけたら、邪魔だ、と言われて押しのけられるか知っているから、ほんの少しだけ額をくっつけている。シャンソンの甘い歌声に乗せて、あとどのくらいこうしていられるんだろうと考えている。その居心地悪さが嫌で、おれはひといきに両腕を伸ばして兄貴の腰にしがみついてやった。 「邪魔だ」 思った通りの声が返って来た。思い切り抱きしめてやってから腕を放すと少しすっきりした。 「吸いすぎんなよ。臭くて、また吐きそう」 バージルはものすごく嫌そうな顔でおれを見て、死ね、と呟いた。 多分、昔はもっと仲が良かった。ずっとよく兄貴のことを知っていた。少しずつ少しずつ、おれたちは離れて行くんだ。好きな音楽や、食べ物だけじゃなく、いろいろなことが少しずつきっと離れて行く。でもおれは兄貴の弟に生まれてよかったと思っている。昔よりそう思っている。もしかしたら、離れれば離れるほどそう思って焦がれるかも知れない。それならば多分、この一瞬一瞬がいつも、常に、一番幸せなんだろう。 おれは離れてしまった両腕を膝下に絡めながら、また性懲りもなくアイスクリームが食べたい、と思った。 |