鏡の国の王
Rating---PG12
Pairing---DV
Summary---
押井守の実写映画「アヴァロン」のパロディ、2つ目。3つ目も書きたい。
Note---
DMC本編の物語とは全く関連していないお話です。いわゆるパラレルが苦手な方はご注意下さい。「黄昏の島」から続いています。




鏡の国の王
Through the Looking-Glass


 ダンテは小さな懐中電灯のキャップを捻り、電池切れ間近の弱々しい光を兄の瞳に当てた。濡れた紙のように白い硬膜がてらてらと光った。瞼の内側を縁取った毛細血管の色が自分に比べると心なしか淡い。顔色から言っても、兄は少し貧血気味なのかも知れない。
 まず右の瞳に懐中電灯を当て、次に左に当てた。不意に当てる距離を変えたり急に左から右へ振ったりした。何の反応もなかった。
 「眩しいか」
気休めと分かっていながらにそう尋ねた。いや、と兄は短く答えたきり瞬きを一つして相変わらず盲いた瞳を真っ直ぐ前へ向けていた。懐中電灯の光もダンテの顔も通り抜けた遥か遠くへ。
「きれいだな」
「なにが」
問い返されて思わず返事に窮し、ダンテはようやく己の無駄口を呪った。言い訳を探しかけて止した。どうせそれが繕った戯言だとこの聡い兄はすぐに気付く。
「あんたの目がさ。きれいな色してる」
 ダンテは注意深く懐中電灯のキャップを締め直しながら呟いた。兄がまた瞬きし───今度は不快そうにちょっと眉根を寄せながら───つと目を伏せた。疾病で濁った虹彩は元の瞳の青さをすっかり失い、鏡を金束子で思い切り擦り上げたような白銀色に変わっていた。兄が昔デッサンに使っていた濃い鉛筆の鉛の光る色にも似ている。
 不意に酷い郷愁に襲われてダンテは無様なほど顔を歪め息を詰めた。兄の目が見えていないと知ってのことだ。彼にこんな表情を見られるくらいなら今すぐそこの窓から飛び降りて逃げ出すだろう。そのくらい酷い顔をしていると思いながらも、ダンテは上睫毛の陰に半分隠れてしまった兄の瞳を尚も見つめて、きれいだ、と繰り返した。斜めに顔を背けようとした兄の頬を指先で止めて下睫毛に口付けた。唇の上を睫毛がぱらぱらとくすぐった。兄は一瞬目をみはり、それから困惑したように後退りながら今度は逆の方向へ顎を振った。その顎も捕まえてまた目元に口付けた。薄皮で造られた柔らかな瞼の上から食べてしまうように眼球を愛撫し、乾いた皮膚にばっくりと開いた切り傷の裂け目に似た唇を指で辿る。兄は小さく嘆息を漏らし、片手で枕元のサイドテーブルの上をまさぐってコインを探した。二人が抱き合うとき賭けにもならない賭けで互いの役割を決めるのに使う、あの古びたコインだ。だがダンテはその手すら袖を引いて止めた。
「なんだ」
半ば苛立ったように兄が糺した。
「それは、使わなくていい。あんたが決めていい」
バージルは弟に掴まれた袖の生地が張るほど身を強ばらせて黙った。
「その代わり、明かり、点けたままでもいいか」
兄は二度目の嘆息を吐き出しながらコインを探しに伸ばしていた手を引っ込め、ゆるゆると体の力を抜いた。好きにしろ、と投げやりに呟き、部屋の明かりに照らされたままの瞳がまるで眩しいかのように頻りに瞬きした。
「どちらでも、俺には判らない」
うん、と鼻を鳴らすように応えてダンテは指でなぞっていた兄の唇に自分の爪の上から少しずつキスをした。



 風が吹いている。皮膚をなぎ払われるような対地掃射にびりびりと鳴る鼓膜のずっと外側で、砂塵の嵐が耳をなぶっている。煉瓦作りの倉庫の壁にしがみついたまま、これはまずいことになったとダンテは脂汗をかき始めていた。低空で迫り来る地上攻撃用ヘリの機銃にまるで足下を削り出されるようだ。さっきまでそこら中で小口径のフルオートをまき散らしていた心構えの不足した連中の姿はもうない。我先にといった様子でリセットを叫ぶ声が次々聞こえた気がしたが、それももう先刻までのことだ。対地ロケットを撃ち込まれるのを待つまでもなくすぐにでも後ろに迫る正規歩兵の一団がなだれ込んで来るだろう。兄の姿は見えない。おそらくこの建物の上階へ行ったはずだ。ハインドに出くわしたときに、自分たちのように限定された人数で縛りのある装備を抱えている場合、取れる戦法は多くない。
 ダンテは機銃掃射の弾幕ではじかれた煉瓦の破片から両腕で頭をかばいながら、兄を呼んだ。返事はない。自分がこんなところで踏ん張っている間にさっさと先に撃ち殺されたのでは、そうだとしたらこの馬鹿げた抵抗の意味が何もなくなってしまう。
 不意にばしっという音が立て続けに二回響いてローターの回転音がひしゃげた。うねる音階の中に機銃の喘鳴が混じる。ダンテは体を起こし、ヘリが姿勢を崩してガトリングの銃口が空を仰いでいるのを見た。倉庫の壁のシミになるのを避けるには最後のチャンスだった。全速力で瓦礫の陰を飛び出し、マップの中に無造作に放置されている戦車───上部に載ったブローニングだけが生きている───へと跳び上がった。ブローニングのハンドルを引っ掴んで空中で悲鳴を上げながら傾くヘリを狙う。マウントリングが重い。タイミングがずれる。バグなんかではない。現実を限りなく模倣した人間の神経と道具の間に生じるジャグだ。それすらをアヴァロンは表現する。ヘリに積まれたリヴォルバーキャノンの方がブローニングよりも圧倒的に立ち上がりがいい。ダンテは握っていた重機関銃の台座からはじき飛ばされ、柔らかな草の上に叩き付けられたのと同時に全身の感覚が四方八方へ向けてねじ切れるような猛烈な気持ち悪さを感じて、舌打ちをするより前に強制ログアウトで意識を失った。

 接続端末のチェアの上で飛び起きた衝撃で、頭に乗っかっていた入力装置が重々しく転げ落ちた。両腕で体を掻き抱きながら長く重く呻く。吐くのは好きではない。だがどうしようもなかった。体をひねってチェアの向こう側の床へ向かって嘔吐した。めまいが収まるまで二回、三回と。舌打ちの代わりに毒づく。クソッタレめ。クソ兄貴。あいつのせいだ…。
「彼は悪くない」
正面の小さなモニターの中で暫くの間黙ってダンテの醜態を見つめていたゲームマスターが意見を述べた。不具の王だとか漁人(いさなとり)の王などと呼ばれるこの老人が、プレイヤーと同様に世界のどこかから接続している人間なのか、あるいはプログラムの一部たるA.I.なのか、定かではないし知るものはいない。ダンテはつまらないゲームのあとに顔を合わせるこの男が、なぜこうも現実感に欠けるのか───吐瀉物をブーツの底で押しやりながら喋るのに苦を感じないのか、不思議に思うことさえない。
「単純な問題さ。おれはあんなところに逃げ込んで立て籠るより前に、先に上を取って攻めるべきだち思ってた。そうでなきゃ…クソ、」 どうやら親指よりもでかい弾でばらばらにされたらしい左の肋骨をなでながらダンテはまた罵った。
「それはこの後ラウンジで他のプレイヤーたちと協議すべきだ」
「話したくねえよ、何も」
「先に少しうがいをした方が良いかもしれない」
「ああ」
ダンテは口の中の酸味に思い切り顔をしかめて唾をぬぐった。
「あいつは。まだログイン中なのか」
「きみの連れはまだログインしている。ラウンジで待て」



 光のない世界を思い浮かべる。黄昏の世界を歩くことを思い出す。10キロ以上の重量の装備を携えても息一つ乱さずに走れる世界。経験値をありったけつぎ込んだ高いフィジカルレベルのおかげだ。その代わりSVDを使うことはできないが、その必要もなかった。大抵のプレイヤーたちはSVDなど使おうとも考えない。兄は特別だ。彼は「狙撃手(スナイパー)」だった。俄にはひとに真似のできないやり方でクラスAをプレイしている。狙撃手とはアヴァロンというゲームに存在する定められた階級ではない。戦士(ファイター)、あるいは司教(ビショップ)の階級にある者が狙撃に特化してプレイする場合を往々にして狙撃手と呼ぶ。その数は決して多くはない。SVDという銃を装備するプレイヤーに関して言えば稀少というべきほかないだろう。800以上の遠射を前提に作られている上に装弾数はわずか10、そんな縛りのある装備は大抵の場合事実縛りにしか働かない。兄が特別なのはまずそういう意味だ。
 狙撃手の命は無論、目だ。走る必要がない代わりに飛び抜けた集中力とスキルと視力が要る。目。兄は目が見えない。照準器越しの世界だけを見る。黒く刻まれた十字とわずかな目盛越しに見る世界。
 ダンテは時々、アヴァロンが美しいと思う。黄色く散る煉瓦のかけら。黒い鳥の舞う塔。くすんだ空に薄く伸びて流れる橙色の雲。兄が平原に滑らせる視線の意味を思う。意味などない。彼はゲームのフィールド特性と敵兵の配置を見ているだけだ。ここがアヴァロンでなかったら。装備の銃把を握りしめながら思う。その視線に意味を見いだせない、見いだす必要のない乾いた開放感がアヴァロンの無機質な空気に混じる。これはゲームだ。自分たちは、ゲームをしているだけなのだと。
 そしてダンテはへまをしてゲームの中で撃ち殺される。端末のつながれた部屋で吐く。ふらふらとラウンジへ出て行き、兄を待つ。うんざりした表情でラウンジへ現れる兄に駆け寄って手を引く。ごめんな、と言う前に大抵罵詈雑言が降ってくる。盲いた目をまぶしそうにきらめかせて彼はいつもひとの目を集める。特別なプレイヤーだから。あるいは、多分、盲目であるから。
 光のない世界を思い浮かべる。死んだ方がましだと思うかもしれない。いつか兄がそう思ったように。気が狂った方がましだと思うかも知れない。脳病院の廃人たちの列に混じった方がましだと思うかもしれない。彼らは黄昏の夢を見ている。黄昏の虚構が見えるなら、暗く凝った現実が見えなくても構わないと思うだろうか。もしかしたら兄が今思っているかも知れないように。



 ダンテは兄の右耳の付け根に唇をこすりつけながら両手で固いコットンの襟を背中へと引き下ろした。深く息を吸い込むと兄が背中を震わせたのが手のひらから伝わって来た。ゆっくりと髪の生え際を伝って項にたどり着く頃には、彼は弟の前で裸になっていた。最初はけっしてこんなふうではなかった。ダンテは喉が潰れるほど泣いていたし、バージルは初めて敵兵を殺した新兵のように震えていた。まるで殺し合うようだった。お互いに死んでも構わないと臨んだ殺し合いによく似ていた。実際にそうしたことがあったからよく解った。お互いの汗や体液や、それに涙でべたべたになった頬を拭いながら、ダンテは感謝した。荒縄で吊った痕が赤紫色に食い込んだままの首筋を晒して、わずかに視界の端に光を感じるだけになった目をきつく閉じた兄が、そんなぼろぼろの体(てい)でまだ生きていてくれることに感謝した。いま兄は暗闇の底しか映さなくなった白金色の目を相も変わらず眩しそうにしばたかせながら弟の愛撫に小さく息を吐いている。
 「ごめんな」
サイドテーブルの上で、使われなかったコインが裏を上にしたまま転がっていた。それが部屋の明かりに照らされてひらひらと光るのを見てつぶやいた。ひどく残虐な光だった。明かりを消したいと思った。いま目に映るすべてのものがどうせ兄には見えないのなら、見たくないと思った。けれど何もかも手遅れだ。バージルは鼻を鳴らし、うるさい、と一息に呻いた。
 価値を知りたい。この世界の価値を知りたい。バターや牛乳やパンやワイン以外の価値を知りたい。アヴァロンにない何がこの世界にあるのか。食事と排泄とセックス以外の価値を知りたい。脳病院の廃人たちの列を思い出す。黄昏の向こう側。戻ることのない船旅。忘却の冠。
 ごめん、ともう一度つぶやいてダンテはシャツを床に払い落としたあとへ兄の両肩を押さえつけた。盲いた者の指先が怯えのかたちに歪んで腕の内側を引っ掻いて絡み付く。肩から、首、それから顎。利き手で辿ったあとを余さず唇で追った。銃弾で引き裂かれた傷によく似た口元も同じように、人差し指の先で開かせては食んだ。かさついた肌の裂け目を引っ張り、中身をえぐり出す。内側の世界と外側の世界。くちづけた瞬間に境界は見失われる。
 「お前」
不意に声をかけられてダンテは息を詰めた。
「痩せた」
ぽつり、と兄はそう言った。



 衆人環視のその目線がどこか奇妙なものに感じられたのは気のせいではなかった。始めは無様な体たらくをおそらくラウンジのスクリーンで晒されたせいだと思っていた、その違和感はピストから出て来たメアリがきれいに入れ替えてくれた。天地がひっくり返るような恐怖とそっくり。
 「お兄ちゃんは?」
ダンテは一瞬言葉に窮して、それからほとんど永遠に思えるほどの間、声を失った。
 ハインドを撃ち落とすのに失敗したのは自分だった。彼は失敗して機銃掃射の逆襲を食らい、逆に地面に叩き付けられた。厳密にして正確なシステムの判定から死亡を宣告され、端末の上で飛び起きざまに嘔吐する羽目になった。
 繰り返す必要はない───アヴァロンでの死は強制的で不利益な帰還を示す。ダンテは「死」んで「帰還」した。兄よりも先にだ。それが間違いであるわけがなかった。いくらサーバーのタイムラグが現実時間に干渉したとしても、端末の個室の中であばらの痛みに呻きながら三度も吐いてゲームマスターと要らぬ痴話をするほどの時間差が生まれるわけがない。
 ゲームマスターは、バージルがまだログイン中だと言い切った。
 奥歯がかちりと音を立てた。
 脱兎のごとく踵を翻してダンテは端末の長い廊下へ駆け戻った。部屋数を数える呂律が頭の中で回らない。廊下を突き当たりまで走り、覗き窓から接続中の部屋をひとつずつ確認して戻った。1番、2番、3番。扉は閉じられ中から光が漏れている。4待機中、5、目が回るようだ。息がもつれる。6待機中、7、8、9。9番。
 引き抜くような勢いでドアノブを掴んで開けた。肌着一枚で端末に横たわった兄が重々しいヘッドギアを半ば脱ぎかけた状態で胎児のように体を丸めているのを見た。覚醒しているのか、あるいはまだゲームに接続しているのか判然としなかった。  助けてくれ、とつぶやいた。確かにつぶやいたと思った。よろめくように合成皮革張りのベッドに横たわる兄の傍らへ近づいた。息はしていた。だがそれは何の保証にもならなかった。ゲーム中にロストした連中の誰もが息をしている。未だに、脳病院の屋上や廊下や小部屋の中で。
 「彼は冷静だった」
ゲームマスターがノイズのかかったいつもの声でそう言った。
「酷いラグに巻き込まれた。撤退(リセット)を選ばなかったのでログアウトに想定外の処理時間がかかった。だがリセットをせずに済んだことは幸運だ。彼が冷静だったおかげだ」
 ダンテは兄の顔にかかった重いヘッドギアをゆっくりと取り除けた。うっすらと汗をかいた頬は土気色だったが、素早い二度の瞬きが彼の目が覚めていることを伝えた。眉間に皺が寄り、薄く開いた目蓋をもう一度きつく閉じ直す。一連の所作はとても意識的だった。ダンテは震え上がるような安堵にむせいでヘッドギアを取り落とした。ものを持つことなどとてもできないくらいに体中から力が抜けきっていた。伸ばしかけた指先が歪んだまま剥き出しの尖った肩の先に触れて肘の内側に引っかかって止まった。やがて柔らかな手がやって来て、なにかとても優しい生き物がそうするように、温かく握りしめられた。