黄昏の島
Rating---PG12 Pairing---DVD Summary--- 押井守の実写映画「アヴァロン」のパロディ。向こう側の世界には昔描いていた夢がある。 Note--- DMC本編の物語とは全く関連していないお話です。いわゆるパラレルが苦手な方はご注意下さい。たぶんつづき書きます。 黄昏の島 Tartarus 穏やかな風が吹いている。黄昏れた砂色の空が広い。もろく崩れかけたレンガのアーチの上に鳥が舞っている。黒い鳥だ。古い欧州の駅舎の形をした廃墟の天井は度重なる砲撃によって崩落して久しい。永遠の午後の陽光にダンテは目を眇めた。柱を背にじっとうずくまったまま胸に抱えたM4カービンのグリップをゆるく握る。風が止むのを待つ。もうすぐだ。ゲームというのは基本的にひとを退屈させないようにできている。 少し首を傾けて左手の階段を見遣る。黒い軍用コートに身を包んだ兄が砕けた窓の傍で光学照準のついたMP5を提げて立っている。踝まで届くコートの裾が小さく揺れている。まだ風は止まない。ダンテは兄の見ているものを想像する。駅舎の外の廃墟の街を映す目はこの世界の空の色と同じように黄昏の色をしている。昔、兄の目は透き通った青色をしていたように思う。もう確かめようがないことだ。いま目の前にいる兄の瞳も色こそ違えど、何もかも見通すような透明な視線で眼下の景色をじっと見詰めている。 風が止んだ。兄が僅かに体の位置を左にずらし、音もなくMP5を構えた。壊れたラジオを百台並べたような重いノイズが聞こえて来る。次いでノイズに混じって乾いた銃声が上がる。ダンテは柱から身を乗り出して灰色にくすぶった街の様子をうかがった。目の前のロータリーの右手からぱらぱらと小銃の乱射音がする。間抜けな先客がいるのは承知だ。ノイズは地響きに変わりつつある。数人のプレイヤーがロータリーへ姿を現した。次いで、追い立てられた一般市民───ゲームのプログラムの一部である「ニュートラル」たち───がノイズの発生源である巨大なT-28中戦車に巻き込まれるようにしてなだれ込んで来る。後方から随走しているのはカラシニコフで武装した古風な軍服の「正規歩兵(トルーパー)」たちだ。プレーヤーのなけなしの反撃に破壊されたプログラムがきらきらと光るポリゴンの残像になっていくつも消えて行く。ジャックブーツの爪先で破壊された窓枠を掴む。まだだ。M4だけでは戦車には歯が立たない。砲撃手を待つ。彼女もこのロータリーを囲むフィールドのどこかでこの戦場を見ている。 正規歩兵たちが戦車の周囲に放射状に展開しAKを撃ち始めた。それが片っ端からきらめくポリゴンの破片になって消えてゆく。兄のMP5だ。精度の高さに定評はあれど純粋な狙撃銃ではないアサルトライフルでこの距離から確実に歩兵を仕留めていく。もう一つレベルを上げれば、それに所持ポイントに余裕があれば、SDVを装備できるだろう。ダンテはこの兄に背中を任せるのが好きだった。自分の背中に向けられた銃口が自分を撃たないことを信じるのは脊髄に怖気が走るほどの快楽だ。 砲弾が炸裂したのは次の瞬間だった。弾道など見えない。T-28の後部装甲から煙が噴き出してやっと弾着を確認する。上部砲塔がぎりぎりと回転し駅舎が主砲の射程から外れる。兄はMP5を撃ち続けている。狙撃者の方角を掴みかねている機銃が苛立ち紛れにそこら中を掃射する。甲高い音を立てて二発目の対戦車ミサイルが着弾した。完全に戦車の足が止まった。 ダンテは一度身を低く屈め、そのまま十メートル下の恐怖と快楽の混沌の中へ飛び降りた。 ログオフした端末を後にして「傭兵待機所(ピスト)」まで出て行くと、メアリが腕組みをして待っていた。今日の作戦のために砲撃手として彼女を雇っていた。アヴァロンには四つの異なる階級があるが、RPG7のような対物火器を扱えるのは彼女のような「魔導師(メイジ)」だけだ。ダンテは微笑んで両手を広げ健闘を称え合おうとしたが、メアリは大きな胸を殊更大きく見せる腕組みをしたまま細い顎をちょっと突き上げただけだった。 「無駄弾撃たせない手際だけは相変わらずね」 「また組むか?」 「あんたじゃなくて兄貴の方よ」 ダンテは肩を竦めてメアリを清算カウンターへ誘った。 「T-28を倒したボーナスポイントは半分貰うわ」 「結構」 「経験値も半分」 「おいノ分配率は35だって言ったろ」 「機銃を潰すのに無駄弾を撃ったの」 「さっきと言うことが違うじゃねえか」 「多砲戦車が相手だなんて聞いてないわ。魔導師がタマ代を自分持ちにするのがどれだけきついか分かる?可愛らしい5.56NATO弾といっしょにしないで」 ダンテは口をへの字に噤んでIDカードを清算用端末のスリットに通した。重装甲を相手にすることの多いクラスAのミッションではこの女には頭が上がらない。彼女はこの周辺の「端末(ブランチ)」で一番腕が良いし、ダンテにとっては金さえ払えば後腐れなく仕事をしてくれる数少ない相手だ。ゲームを巡る人間関係に良いものなどないと言っていい。アヴァロンに関わって来た時間が長ければ長いほど、顔を合わせたくない奴ばかりが多くなる。分配率35で今後も彼女が良い傭兵でいてくれるなら高い買い物ではないかも知れない。なにせメアリは優秀だ。 ディスプレイの中でポイントの分配が行われると、メアリは右手の一振りでさっさとロビーの雑踏の中へ消えてしまった。カウンターで支払われた現金を鉛色のフライトジャケットのポケットに押し込んでダンテは顔を上げた。地下にあるブランチの入り口の階段へ続く扉の傍に兄が立っている。真っ黒なレザートレンチを着込んだ姿はアヴァロンの中で黒い軍用コートの裾を揺らしていた残像のようだ。さもありなん、アヴァロンにおけるプレイヤーの容姿は例外なく現実での姿形を模倣する。ただ数値化されたパラメータによってプログラム上に置いて限りなく身体能力が向上するだけだ。一旦ログオフしてしまえば、十メートルなど飛び降りたらただちに骨折してしまう当たり前の体がそこにある。M4もRPGもない。 「終わった。帰ろう」 ダンテは兄の前に立ち、彼の肘に手を触れてさりげなく気を促した。それでようやく彼は弟がそこにいることを知る。兄は盲目だ。この広い世界では盲い、眠りの向こうにある黄昏の島でのみ空を見る。 バージルはひとつ息を吐き、やや疲れたような声でああと答えた。 昔、兄の目は透き通った青色をしていたように思う。もう確かめようがないことだ。ある日、眼球の瞳の部分を覆う透明な角膜の上にぽつりと白い曇りが現れた。最初は左目の虹彩の上に。次に右目の虹彩にも。それらは消えることも小さくなることもなく、次第に広がっていった。眼科医を渡り歩いた。ある医者は昔飲んだ薬の副作用だと言い、別の医者は石綿のせいだろうと言った。原因は分からず何の治療もできないまま兄は失明した。 最初に針の先ほどの曇りが現れてからそれがすっかり虹彩と瞳孔を覆ってしまうまで、それが半年だったのか三ヶ月だったのか或いは一年かもっとかかったのか、ダンテにはもう判然としない。あっという間だったように思うが、とてつもなく長かった気もした。兄に言わせると、一番辛かったのは完全にその曇りが彼から光を奪ったときではなく、ちょうど焦点の合う中心の位置を覆ってなお周縁部には視界が残されていたときだったそうだ。確かに、兄にとってもダンテにとっても、失明という事実は何かを失う者を通り過ぎて行く数々の苦痛のうちの最後のひとつに過ぎなかった。 何も悪いことをしていないと思っているのに罰されるのはとても辛いことだ。大抵の人間が己に降り掛かった困難に対してするように、兄も自分が盲いていく事実に何か意味を見いだそうとしていた。罰であるとか、試練であるとか、はたまた悪意であるとか、そういった「意味」だ。兄は恐らくすべての「意味」を試してみたのだろう。ダンテから見ても彼は散々に足掻いていたし、ときにはその酷いとばっちりに遭った。一番酷かったのは、これを罰だとするとはて罰される理由が見当たらないので罰されるに値する人間になろう、と試みられたときだった。わざわざ悪い人間になろうだなんてどうかしている。実際どうかしていたに違いない。兄は絵を描く人間だった。職業画家ではなかったが、きちんと師について絵を学んでいた。そういう人間にとって目が見えなくなるということがどういう心地なのか、ダンテには想像もつかない。ダンテが覚えている限り、兄は二度ほど首を括るのに失敗し、三度弟を殺そうとした。そういえば、アヴァロンの中では一度も喧嘩をしたことがない。そんなことをしている暇がゲームにはないのだ。それでもたまに、ダンテは兄の手の中にあるアサルトライフルの銃口が自分に向けられないことを不思議に思う。現実には包丁を突きつけられたり、デッサンイーゼルで殴られたり、絵の具が目一杯入ったリットル缶を投げつけられたりしたのに、と。 今日の報酬でブランチから二人で住んでいる公営アパートに戻る間に、闇市で牛乳とバターを買った。どちらも希少品だ。このような物品のやり取りには必ず現金が必要だが、現金を持っている人間はそれほど多くない。食料も衣料品も配給制度が厳しく整備されてから随分経つ。人々の多くは現金の代わりに受給チケットを兼ねたIDカードを持ち、配食所(メスホール)でチケットと交換に泥のような飯を食っている。食事の配分量は性別と年齢によって区分されていて、量にも特に問題はなく、一応日替わりのメニューとおぼしきものも用意されていた。それでもマカロニやミートボールに似たでんぷんやタンパク質の塊を塩辛いスープで煮込んだシチューと、硬いパンがひとつ、食物繊維入りの何の味もしないビスケット、ビタミンやアミノ酸補給を目指した奇怪な色のジュース、ペットボトルに入った水、そのバリエーションが毎日続くのには辟易するなと言う方が無理だ。貴重な現金を稼ぐ一つの方法がアヴァロンなのは否めない。接続料金は悪質なほど高額だが、現行クラスで最も難しいとされるクラスAでそれなりの成績を収める実力があれば、それを差し引いても多少の小金は作れるようになる。アヴァロンが当局から非合法とされながらも爆発的にユーザーを増やした理由の少なくとも一つは、このバターであり牛乳だった。 これまた配給チケットを使って月の利用回数が定められているバスに揺られながら、バージルは窓際の席で少し俯き加減に顎を引き目を閉じていた。ダンテは牛乳の瓶とバターの容器が入っているので少しひんやりとする布袋を抱えて手摺に腕を巻き付けるように寄り掛かったまま、兄の顔を眺めていた。ブランチとアパートを往復する生活をするようになってもう何年にもなる。こうしていると何も変わっていないようだと思う。兄が今にも目を覚まして、不躾な視線を咎めるのではないかと思う。だがそんなことはもう決して起こらない。この世界では二度と。永遠に。 バスを降りて表通りからすぐ暗い路地へと曲がり、少し歩くと、古いコンクリート造りの五階建てのアパートがある。入り口の階段の真上には「第八十七公営住宅二○五号棟」という金属でできた文字がコンクリ壁に直接打ち付けてあるが、錆びたり欠けたりしてもう殆ど読めない。ダンテは兄の左肘に軽く自分の肘を押し当てて歩く。慣れた道はそれだけで事足りる。足元には随分気を配るようになった。何かつまずくようなものがあっても気付くのは自分だけだからだ。二階の西側のドアを開けるとそこが二人の部屋だった。一歩入ったときから油絵の具の匂いがからだにまとわりつく。天井や壁紙や床板にしみ込んだ匂いだった。引っ越しのときにはさぞ苦労するだろうがその予定は今のところない。特に玄関と呼べるスペースは設けられておらず、入ってすぐが居間であり寝室だった。右手にデスクや本棚に作業台、カウチや食事をするテーブルがあり、左手に箪笥とベッドがあった。キッチンは右手の一番奥でそれも特に隔てられてはいない。キッチンの真横にようやく一つドアがあり、そこがバスルームだった。 バージルはすたすたと左へ歩いて行き、コートを無造作に脱ぐとベッドに腰掛けてブーツを脱ぎ始めた。この狭い部屋の中ではもう特に動き回るのに困る様子は見せない。引っ越して来た頃から模様替えは一度もしていなかったし、なにぶん二人暮らしだ、椅子の位置もそうそう変わったりしなかった。 ダンテは右のキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けて買って来た牛乳とバターを押し込んだ。ブロックのベーコンが少しと、表面がちょっと乾いてしまったチーズがあった。シンクの下の物入れを開けてみた。じゃがいもと玉ねぎが木箱の中に二つずつ、麻袋に入った米はもうひと掴みもなさそうだった。 「なあ、腹減ってるか」 「いや」 ブーツをクローゼットの中へ仕舞いながらバージルが素っ気なく答えた。ブーツに押し込まれていたせいで裾が少し縒れたデニムを脱ぎながらその脚をベッドの上へ上げてしまった様子からすると、今日は本当に疲れていたようだった。 「スープ作るけど」 「一人で食え。もう休む」 「風呂は」 「先に寝る」 それきりバージルは口を噤んで壁を向いてしまった。 じゃがいもを洗う。皮を剥く。あまりうまくいかない。兄に比べたら手先は器用な方ではない。皮むき器があればいいのにと思う。玉ねぎの皮を剥く。両端を落とし、じゃがいもといっしょに薄切りにする。片手鍋を一つガス台に載せて火をつける。換気扇のひもを引っ張るがなかなか回り始めない。五回目でようやくからからとファンが回り出す。鍋にバターを溶かす。玉ねぎとじゃがいもを炒める。蓋を閉めて弱火にする。時折かきまぜる。また蓋を閉めて待つ。熱したバターの良い香りが立ちこめる。四度ほど蓋を開けた辺りで、木べらの先でじゃがいもを押してみた。あっさりと潰れたのを見計らって、冷蔵庫からさっき買って来た牛乳を取り出し、少しずつ鍋の中に注ぐ。じゃがいもを潰しながらかき混ぜて煮込む。適当に塩をふる。胡椒のびんは空だった。具がすっかり崩れてしまうのを待って火を止め、換気扇を止める。手近な器を取って鍋の中味を半分だけ移す。残りは蓋をしてガス台の上に置いておく。 テーブルにつき、ベッドに背中を向ける席に腰を下ろした。そちらがダンテの席だ。木で出来た古いテーブルは表面にかなり傷やへこみが目立つ。癇癪を起こして食器を叩き付けた覚えのある傷の上に熱い器を置いて、くすんだアルミのスプーンでどろどろのポタージュを掬った。塩っぽいだけで素っ気ない味だった。ベーコンの残りを入れてしまえば良かったな、と思う。小腹が減っていたので尚更だった。けれども炒めたバターの香りは特別だった。それにたったいま皮を剥いて刻んだ野菜の舌触り。温んだ牛乳の甘さ。配食所では決して出会えないものだ。兄のぶんを残しておいて良かった。 空になった器とスプーンを置いて唇を拭っていると、壁際の作業台の上にいくつも几帳面に並べられたパレットナイフが目に入った。絵を描かなくなっても兄は時折道具の手入れをする。だからどの筆もナイフも柄にしみ込んだ絵の具や剥がれたニスを除けば今買って来たようにぴかぴかだ。ダンテは絵のことはまるで分からなかったが、兄の描く物で言えば、油やアクリルよりも、色のない下書きの木炭デッサンやクロッキーが好きだった。 ダンテは立ち上がって食器を片付けに行き、シャワーを浴びるかどうか迷ったが、どうせまた明日も朝は遅いことを思い出して踵を返した。窓の下にシングルベッドが二つ並んでいる。右側のベッドに腰を下ろし靴を脱ごうと身を屈めたところで、呼吸で柔らかく上下する兄の胸に視線が止まった。白い木綿の開襟シャツのボタンの隙間から硬そうな胸元が覗いている。ダンテは瞬きをし、一度下を向いて靴紐に伸ばした指を動かしかけたが、ひとつ息を吐いてまた顔を上げた。そっとベッドから腰を浮かせ兄の枕元に手を伸ばす。シャツの襟に触れようとしてやめた。代わりにあっさりとその頬に指の背を押し当てた。特に手入れなどしていないから少しざらついている。唇も同じで、乾燥して剥がれかけた皮が表面に白く浮き上がっていた。 「眠い」 唐突にその唇が開いて口をきいた。 「分かってる」 「なら起こすな」 「うん。ごめん」 バージルは目を閉じたまま申し訳程度に首を向こうへ捻った。ダンテは体を起こして入り口のドアの方へ歩いて行き、壁にある照明のスイッチを二つとも切った。カーテン越しの光は薄暗く、部屋の中は殆ど真っ暗になった。シーツの擦れる音がして、バージルが「セックスしたいのか」と訊ねた。 「いや、そうじゃないけど」 ダンテは口ごもり、また自分のベッドに戻って腰掛けながら、慣れない暗闇で兄の姿に目を凝らした。性行為をするときに部屋を暗くするのは習慣になっていたが、それは白く濁った兄の目を見ながらその兄と抱き合いたくなかったからだった。互いの姿が見えないくらいに部屋を暗くして、兄にコインを握らせ、面か裏か、当たればダンテがバージルを抱き外れればその逆にした。相手の手の中にあるコインに賭けることがどれだけ馬鹿馬鹿しいことか。兄には虚偽の申告をする自由があったし、コインを投げ出す自由さえあった。しかしダンテがその手のひらを開かせたときに兄が嘘をついていたことは今まで一度もなかった。渡されたコインを押し返しこそすれ、投げ出したことも。 三度目にこの兄に殺されかけたとき、ダンテは腹の中で自分だって彼を殺してしまいそうだ、と思った。したたかに殴られて朦朧となっている頭を何度も蹴られながらそう思った。喉笛を踏みつけられて、涙が出た。死にたいと思った。あまりにも憎まれている、と悲しくなった。こんなふうに憎まれたらいつか憎んでしまう。だが兄はどれほどひどく弟を殴っても弟の目に手を出したことはなかった。それだけはためらい、必ず諦めた。目の前にちらつかせた刃物を兄がぞっとするような表情で己の顔に向けた夜、初めて兄と寝た。行為に託つけて喉が嗄れるほど泣いた。それきりバージルはダンテに手を上げなくなった。 ダンテは暗闇に慣れ始めた目を閉じ、行儀悪く片方ずつ脱いだ靴を床に放り捨てて自分の寝床に潜り込んだ。 「スープの残り、鍋の中にあるから」 長い沈黙のあとに返事が聞こえた。もしかしたら兄の方がセックスをしたかったのだろうか、とダンテはその沈黙について考えたが、すぐに眠気が空腹ごとその疑問を押し流していった。 静まり返った空気が透明なままじっと凝っている。黄昏の色で描写されたコンクリートと鉄骨と屋根。いくつも小さな四角い形に剥がれた虫食い天井の遥か上に鳥が舞っている。黒い鳥だ。前世紀の戦争で使われた兵器廟を模したフィールド。永遠の午後の陽光が天井の穴から地面まで梯子のようにまっすぐ差し込んで来ている。ダンテは目を眇めて兄を見た。現実の体は別々の個室の別々の端末の寝台に横たわっているけれど、兄はいまダンテの目の前で真新しいSDVを肩に担いだまま天井を見上げていた。直接脳神経に伝わる信号を介してこの虚構の世界を「見て」いる。スケッチをしたい、と思うことはあるのだろうか。砂塵が柔らかな光の中できらきらと輝いている。錆びた鉄骨の段組みと砂利の上を鳥の影が薄らと何度か横切っていった。この世界に、クロッキー帳を持ち込めたら、と兄は思ったりするだろうか。ダンテは兄がいま、振り向いてくれないだろうか、と思っている。黄昏れた砂色に染まった目で構わない、その目で、もう一度自分を見てくれないだろうか。 「彼女はまだか」 バージルは二階へ続く鉄製の階段を確認しながら言った。メアリのことを指している。彼女とはまたさっきピストで契約を交わした。つい先日、別のブランチで声を掛けて来たパーティーに雇われてつまらない火傷をしたばかりだったので、彼女は機嫌が悪かった。いつものように軽口で慰めながら「いっそのことまた組もうぜ」と誘った。傭兵稼業ほど儲からないだろうがレディに火傷なんかさせない、そう言うとメアリはやはりいつものように、土下座されたって願い下げよと一笑に付してくれた。彼女には彼女の事情があるのだ。自分たち兄弟にも事情があるように、アヴァロンを必要とする事情が。 「バージル」 兄は未だに兵器廟の構造を丁寧に目視しながら無視するでなく、ただ振り向かなかった。 「メアリのことなんだけど」 「なんだ」 「あいつさ、多分」 あんたに惚れてるんじゃないかな。 突拍子もないことを言ってみたかった。それなのにダンテは自分の口から飛び出した台詞に少なからずぎょっとした。それがまったき嘘ではなくて、薄々気付きそうで気付かない事実のように胸の内で考えていたことだったからだ。くるりと振り向いたバージルの苦々しい視線に射止められて、ダンテは笑った。苦い果物を必死に絞って得た一滴のような幸福がからだの中で震えた。きっと端末の中で目が覚めたあともこの感覚は覚えていられるだろう。ロケットに吹っ飛ばされて来た煉瓦の塊に膝をやられたときは、目が覚めてからも脚が痛くて立ち上がれず、疑似体験に対する身体的反応で現れた痣もなかなか消えなかった。心臓をレモン漬けにされているようなこの幸せは、きっと痛みと同じように忘れられないだろう。 不意に遠くからぱらぱらというプロペラ音が聞こえて来た。クラカヂールか、ジュミーヤか。どちらにしろ対地攻撃ヘリはクラスAの敵としては最強クラスだ。メアリはまだ姿を見せない。今のところ、無誘導ロケットに吹っ飛ばされずに済む勝算はSDVにかかっている。ダンテは既にヘリを回り込むために兵器廟の外へと走り出した兄を追いながら、ああこいつと居るとどんなゲームにも負ける気がしない、と飼いならし切れない興奮のままに俄に激しく吹き始めたヘリのローターが巻き上げる風に目を細めた。 |